大乗の涅槃経 秋収冬蔵(しゅうしゅうとうぞう)②



しかし、この経文には前半部が省略(あるいは抄掠とも)されているという指摘がある。この経文を略さずに書くと



譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。



したがって、涅槃経の立場では、先の声聞記別の経文の解釈はまったく逆であると考える人もいる。それは、法華経はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において、「それまでの教えと違うのなら聞けない」と五千人の増上慢の比丘たちが立ち去って(これを五千起居(ごせんききょ、ごせんきこ)という)以降、救われていない。それらをもし涅槃経に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、また最高の教えであると位置付ける法華経に落ち度があることになり不完全な教えとなる、と主張する。しかし、もしそうなら、法華経は、涅槃経の役割(落ち穂拾いという)も認めたことになり、涅槃経(大乗としての)は、法華経によって生きてくることになる。またこの涅槃経の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。涅槃経では、これはあくまでも涅槃経の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、法華経で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この涅槃経の教えを修学すれば、「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。したがって涅槃経を修学しなければやり残したものがある、というのが、解釈を加えない経文そのものの真の意味である。つまり、これは、落ち穂拾いを認めた説ということになる。