大乗の涅槃経 秋収冬蔵(しゅうしゅうとうぞう)①


さらに涅槃経の菩薩品には


能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し


とある。この涅槃経中の経文は、法華経を引き合いに出していることから、さまざまな解釈や論議を生むことになった。



天台の法華玄義釈籖(ほっけげんぎしゃくせん)巻二に


法華に権を開するは已に大陣を破るが如く、余機彼に至るは残党難からざるが如し。故に法華を大収となし、涅槃を捃拾(くんじゅう)と為す」とあり、日蓮もこの流れを汲み、『報恩抄』において「また法華経に対する時は、是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし



と述べている。つまり、天台及び日蓮の解釈では、一仏乗を開き顕し、釈尊の出世の本懐を顕して、八千の声聞に記別(未来に成仏すると予言し約束する)した法華経に対して、法華経の後に説いた涅槃経は、法華経の利益に漏れた者を拾い集めたものであるから、法華経を秋に収める大収、涅槃経を冬に蔵す捃拾とする。したがって、涅槃経を捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)とも呼ぶ。