ダライ・ラマ 歴史
ダライ・ラマの認定をめぐる外部勢力の介入
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォによる比丘戒の不受と沙弥戒(しゃみかい)の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライ・ラマ擁立の後ろ盾となってきたグーシ・ハーン一族の分裂をもたらし、ツァンヤン・ギャツォに替えて別の六世エシェ・ギャツォを擁立する「ラサン派」と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤン・ギャツォの「生まれ変わり」として擁立されたケルサン・ギャツォを擁する「反ラサン派」が対立することとなった。
対立は、オイラト本国(当時ジュンガル部が支配)や清朝などの外部勢力を巻き込んだ戦乱の果て、1720年、ケルサン・ギャツォがダライ・ラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケルサン・ギャツォを「ツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ7世」として認定したのに対し、清朝は当初「ロサン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ6世」として扱った。清朝がケルサン・ギャツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定している通り七世として認めるのは、18世紀末、康熙帝(こうきてい)の曾孫 嘉慶帝(かけいてい)の代まで下る。
ダライ・ラマ8世の代に起こったグルカ戦争を機に、清朝の乾隆帝(けんりゅうてい)は化身ラマの選定方法に介入し、「セルブム(黄金の瓶)」をチベットに贈り、ダライ・ラマとパンチェン・ラマなど化身ラマの大名跡の認定にこの瓶を活用するよう求めた(→金瓶掣籤(きんべいせいせん)。ダライ・ラマについては、10世から12世までの選定に用いられた)。