拈華微笑 大梵天王問仏決疑経



大梵天王問仏決疑経には全24章のものと全7章のものとがあり、互いに章名も内容も異なっているが、両方とも「我今日涅槃時到」「如來今者不久滅度」などと記されており、釈尊の死の直前に説かれた経典であるとされている。しかし、パーリ仏典のマハー・パリニッバーナ・スッタンタ(=漢訳阿含経典の『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)など)によれば、釈尊の死の直前期には迦葉は釈尊のそばにおらず、遠隔地で修行していたという。当然ながら迦葉は釈尊の臨終の場にも居合わせず、迦葉が釈尊の死を知ったのは釈尊の死から7日後のことである。つまり、上記パーリ仏典などの内容を信じるならば、「拈華微笑」の伝説は明らかに史実に反しているということになる。また、禅宗は中国において初の道信どうしん。西暦580年 - 651年)の頃から盛んであったが、それよりも後世に編纂された漢訳仏典の二大目録である『開元釈経録(かいげん しゃくきょうろく)や『貞元新定釈教目録(じょうげん しんじょう しゃくきょう もくろく)には大梵天王問仏決疑経は記録されておらず、中国への伝来時期や訳者も不明である。以上の事実により、今日では、大梵天王問仏決疑経は「拈華微笑」の伝説を根拠付けるために中国で創作された偽経であるとされている。