十王 歴史 日本

日本では、平安末期に仏教由来の末法思想冥界思想と共に広く浸透した。


日本では『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が作られた。『地蔵十王経』の巻首にも、『預修十王生七経』との記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきた。ただ今日では、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。


『地蔵十王経』中には、三途の川奪衣婆(だつえば)が登場し、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く鳥が描写され、文章も和習をおびるなど、日本で撰せられたことをうかがわせる面が多分にある。冥界思想の浸透については、伝来した『正法念処経』や、源信が記したとされる『往生要集(おうじょうようしゅう)がその端緒であると考えられている。鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、時代が下るにつれてその数も増え、江戸時代には十三仏信仰なるものが生まれるに至った。

他界観の変化

日本では、十王信仰が持ち込まれた事で他界についての情報が飛躍的に増えた。旧来は『古事記』に見られるあいまいな黄泉国(よみのくに)の他界観で、漠然と死後ただ行く世界だった。


それに対し、死した後の世界を詳細に定義付けた地獄の他界観は道教儒教の影響を色濃く受けた、人一人一人に対し厳しいものであった。しかし、末法思想が流行った当時は他界観がクローズアップされ、明確な情報をもった仏教的他界である地獄が広く受け入れられる結果となったのは自然だった。


なお、日本の地獄の他界観はほとんどが中国由来だが、すべて中国のものと同じではなく、多少の差異がある。三途の川・賽の河原奪衣婆(だつえば)や懸衣翁(けんえおう)等である。