インド密教の歴史 後期密教
中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽(むじょうゆが)タントラの経典類を中心とする後期密教が登場した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、また、それに伴って法身普賢や金剛薩埵(こんごうさった)、金剛総持(こんごうそうじ)が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。
また、インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智を象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあったことから、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみられた。それゆえ、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の実践もまた実際の性行為ではなく、象徴を旨とする生理的瑜伽行のクンダリニー・ヨーガによる瞑想へと正式に移行する動きも生じた。これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。
一方、瑜伽行は顕教ではすでに形骸化して名称のみであったが、密教においては内的瑜伽や生理的な修道方法が探究され、既に中期密教で説かれた「五相成身観」や「阿字観」、「五輪観」に始まり、更には脈管(梵:ナーディー、蔵:ツァ)や風(梵:プラーナ、蔵:ルン)といった概念で構成される神秘的生理学説を前提とした、呼吸法やプラーナの制御を伴う瑜伽行の諸技法が発達した。とりわけ母タントラ系の密教では、下半身に生じた楽を、身体の中央を貫く中脈(梵:アヴァドゥーティー、蔵:ウマ)にて上昇させることによって歓喜を生じ、空性(くうしょう)を大楽として体験する瑜伽行が説かれるようになった。後期密教の生理的瑜伽の発展した形は、チベット密教の「究竟次第」(蔵:ゾクリム)と呼ばれる修道階梯などにみることができる。
さらには、当時の政治社会情勢から、イスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラチャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争で悪の王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。
インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系は今日もチベット密教の中に見ることができる。