密教 概説


一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する。この点に密教の特徴がある。 また別の面からは、密教とは言語では表現できない「仏の覚り」それ自体を伝えるものであり、「仏の覚り」とその方法が凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」であるということが密教の密教たる所以だともいう。これらとは異なり、密教の「密」とは「顕」に対する「密」ではなく、ソグド語で「日、太陽」(七曜の内の日曜)を意味する言葉である「ミール」 (Mir) を漢字で「密、蜜」と音訳したものとする説もある。




本来、密教は文字によらない教えであり、先に述べたように顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し密教は、空海の詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)で「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機にとどまる。恵果(えか)大師が、伝授の方法を説きたまえり。末葉に、伝うる者敢えて三昧耶形(さまやぎょう)に違反してはならないと。与奪は我(空海)が意志に非ず、密教の教えを得るか否かはきみの情(こころ)にかかれり。ただ、手を握りて印を結んで、誓いを立てて契約し、口に伝えて、心に授けるのみ。」と述べているように、「阿字観(あじかん)等に代表される不生の三昧(瞑想)を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂(かんじょう)の儀式を伴う「印信」や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならないとされた。これは、灌頂が儀式の中で段階的に、行いを重視する「小乗戒」と、心のあり方を重視する「大乗戒」と、中期密教に始まる、象徴を理解するための基礎の「三昧耶形」と、それに加えて無上瑜伽タントラでは、後期密教における仏智を軸とする発展的な三昧耶戒である「無上瑜伽戒」を与え、心身における全的覚醒を促し、密教に必要な諸々の戒律を参加者に与えることにより、その対象を限定した上で、「秘密とされる灌頂の授者を生きたまま(即身)諸仏の曼荼羅に生じせしめる」からである。



それゆえ弘法大師空海は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』の中で「密教の三原則」として以下のように挙げている。

1 法身説法(法身は、自ら説法している。)

2 果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)

3 即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)



いわゆるそれまでの小乗仏教(声聞・縁覚)が成仏を否定して阿羅漢の果を説き、さらには大乗仏教が女人成仏を否定し、無限の時間(三阿僧祇劫)を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世(この世)における成仏である「即身成仏」を説いたことによって、画期的な仏教の教えとして当時は驚きをもって迎え入れられた。この点での中期密教と後期密教との差異はというと、中期密教は出家成仏を建前とするのに対して、後期密教は仏智を得ることができれば出家在家に関係なく成仏するとしている点である。


密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」といい、受者である弟子に対して阿闍梨あじゃり。教師)の称号と資格を与えるものである。いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。