説出世部 教義


概観

説出世部には大衆部と区別されるべき大きな教義上の違いはなかったとされるが、代わりに地理的な違いが存在した。チベットラマターラナータは、一説部、説出世部鶏胤部は本質的に同じであるとみている。彼は「エカヴヤーヴァハーリカ」(Ekavyāvahārika)を大衆部全体で使われる言葉だったとも考えている。より早い時代の世友(せう)の『異部宗輪論』(Samayabhedoparacanacakra)では一説部、鶏胤部、説出世部は教義上変わるところがないものとして扱われている。世友によれば、大衆部のこの三つの部派で四十八のテーゼが共有されていたという。

二種類の空(śūnyatā)、すなわち自己が空であること(pudgala-śūnyatā)と現象が空であること(dharma-śūnyatā)を除いて世界に実在するものはないと説出世部は主張していた。この二種類の空の思想は大乗仏教の際立った特徴でもある。

仏陀は超越的(lokottara)で、その生涯や肉体的な現れは見かけ上のことにすぎないとされる。説出世部は仏陀・菩薩が超越的本性を持ち、阿羅漢は可謬・不完全だという説を支持していた。

菩薩

説出世部の『マハーヴァストゥ』では仏教を三つの乗り物から成るものという考えについて述べられており、特に菩薩道や菩薩の階梯を扱った教えを含む。『マハーヴァストゥ』から、大乗仏教の菩薩に必要となる十地(じゅうじ)から成る悟りへの階梯の概念を説出世部も有していたことが知られる。この『マハーヴァストゥ』に記される十地は大乗仏典の『十地経』にみられるそれと同様のものであるが、十段階の各位の名称が幾分か異なる。

浄土

無数の浄土(じょうど)(buddha-kṣetra)が存在して、さらにそれらの浄土を通じて無数の仏陀や仏陀になる無数の十位の菩薩が存在すると説出世部で考えられていたことは『マハーヴァストゥ』から明らかである。そのそれぞれが無数の知覚能力のある存在を解脱へと導くとされるが、知覚能力のある存在の数は本質的に無限である。

仏陀の同等性

『マハーヴァストゥ』の中には、大乗仏典と強く類似する仏性についての説出世部の説明がかなりの程度含まれる。ある節では、多くのデーヴァは仏陀の栄光に対して日覆いを設置し、仏陀ばかりが人々の下に姿を現す。それぞれのデーヴァは自分の特別な栄光を信じて疑わず、自分の仏陀の架空の人物であることに気付かず、彼が見る他人と異なるところがない。これは大乗仏典の『首楞厳三昧経(しゅりょうごんざんまいきょう)における説明と一致するこの経典では、仏陀は様々なデーヴァのために用意された膨大な数の獅子の玉座の上に同時に現れたが、それぞれのデーヴァには自分のために用意された玉座に座る仏陀しか見えなかった。ちょうどいいころあいになると全ての仏陀がデーヴァ達に見えるようになり、デーヴァの内の一人がどの仏陀が本物なのかと問うた。『首楞厳三昧経』では、仏陀の答えは究極的には、自分たちは皆同じである、というのは仏性はあらゆる現象と違うところがないからである、というものであった。

来世の仏陀

『マハーヴァストゥ』において来世の仏陀弥勒(みろく)は度々言及されており、ガウタマ・ブッダに続いて来世に現れる運命にある1000人の仏陀の一人にすぎないと述べられている。

大衆部-説出世部の説は上座部の説と一線を画する。上座部では五人の仏陀がガウタマに続いて現れると考えられている。