興福寺奏状 八宗体制論
浄土教を中心とする鎌倉仏教の研究に大きな学績をのこした田村圓澄(たむら えんちょう)は、1969年(昭和44年)の「鎌倉仏教の歴史的評価」において、奏状中の「八宗同心の訴訟」すなわち「伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え」という文言に注目し、八宗がそのように同心して法然を排撃しようとする背景には、法然の教義に対してみずからの有する特権を保守しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけた。
また、奏状の第9条には「仏法王法なお身心のごとし、互いにその安否をみ、宜しくかの盛衰を知るべし」とあり、ここでいう「仏法」とは伝統八宗の説く仏法であり、そのような仏法と公家政権による王法とが並び立ち、たがいに支え合うことで共存共栄することができると説く論理もみられる。田村によれば、八宗同心の訴訟が寄せられる公家政権は律令国家の系譜に連なる古代国家であり、それゆえ、国家との相補的な関係を理由に天皇の認可を立宗にともなう必須の条件とする興福寺奏状のロジックは、裏返せば、八宗体制の古代的な性格を示すものにほかならなかった。
八宗体制論は、鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・護国的ないし祈祷的仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立ととらえる家永三郎(いえなが さぶろう)・井上光貞(いのうえ みつさだ)らの説いた定説とも調和し、1970年代以降の仏教史研究に大きな影響をあたえた。ただ、田村の所説は従来説とくらべ、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側に、共通の利害に由来した一定の秩序があることを指摘した点に違いがあり、これはやがて次代の鎌倉仏教研究に大きな課題をのこす結果となった。