興福寺奏状(こうふくじそうじょう)



興福寺奏状(こうふくじそうじょう)とは、元久2年(1205年)、奈良興福寺宗徒法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書。法然弾劾の上奏文というべき性格を有していた。全1巻。『大日本仏教全書』に収載されている。





興福寺奏状は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年10月南都興福寺奈良県奈良市)の寺僧らが法然坊源空(ほうねんぼうげんくう、法然上人) の唱導する専修念仏の教えをただし、その禁止を求めて朝廷に上奏した文書である。起草者は、法相宗中興の祖といわれる笠置寺かさぎでら、京都府笠置町)の解脱坊貞慶じょうけい、解脱上人)であり、法然の教義(浄土宗)に対する9か条の批判より始まっている。この奏状は、承元元年(1207年)の法然ひきいる吉水教団(よしみずきょうだん)に対する弾圧(承元の法難)の一因となった。また、同奏状中の「八宗同心の訴訟」という文言が、鎌倉仏教および日本仏教史研究家の田村圓澄(たむら えんちょう)によって注目され、日本の古代仏教に関して「八宗体制論」という理論的枠組みを生む契機となった。



なお、興福寺奏状の出された前年の元文元年(1204年)には、比叡山延暦寺滋賀県大津市)の衆徒が天台座主(てんだいざす)真性(しんしょう)に対し、専修念仏の禁止を要求している(延暦寺奏状)。