承元の法難 法然の対応
元久元年(1204年)11月、叡山側の動きに対して、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空(ほうほんぼう ぎょうくう)や『六時礼讃』(ろくじらいさん)に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西(あんらくぼう じゅんさい)が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。
承元の法難 法然の対応
元久元年(1204年)11月、叡山側の動きに対して、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送る。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空(ほうほんぼう ぎょうくう)や『六時礼讃』(ろくじらいさん)に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西(あんらくぼう じゅんさい)が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。