血脈相承 法華系各派の解釈② 富士門流諸派の解釈



1876年(明治9年)、大石寺(たいせきじ)を含む富士門流(日興門流・興統法縁)の各本山・末寺により日興門流の統一教団 日蓮宗興門派(本門流)が発足した。明治政府が諸宗教・宗派に共通して求めたフォーマットに基づき、本門宗内では総本山や管長の選出方式をどのように定めるかについて議論が行われたが、大石寺が主張する「大石寺が富士門流における嫡流である」とする主張は、他の7本山の承認を得られず、1900年の大石寺本末による本門宗離脱と日蓮宗富士派(日蓮正宗)結成の原因となった。

日蓮正宗以外の日興門流諸派における「血脈相承」の位置づけ、解釈は以下のとおりである。



北山本門寺

北山本門寺(きたやまほんもんじ)では、伝統的に言っても、血脈相承というもの自体を極めて軽視してきた。 まずその出発点からして、日興(にっこう)から重須を譲られた日代(にちだい)は、一山大衆の手によって追放の憂き目に遭っている。当然、日興から日目(にちもく)への血脈相承も認めなかった。 さらに現在では、二箇相承も否定している。


西山本門寺

西山本門寺では、日興から日目への血脈相承を認めず、『八通譲り状』を根拠に日代正統説を立てている。しかしながらその一方で、かつて本門宗の管長として三派合同を推進した第49世貫主 由比日光(ゆい にっこう)は、戦後は日蓮正宗への合流を推進し、1957年(昭和32年)、本山単独で、日蓮宗からの離脱と日蓮正宗への合流を果たした。1960年(昭和35年)、由比日光は逝去したが、その後継指名にもとづき日蓮正宗は下条妙蓮寺(しもじょうみょうれんじ)の前貫主 吉田日勇(よしだ にちゆう)を西山の住職に任命した。しかしながら由比日光による日蓮正宗への合流は塔中や檀信徒への根回しを欠いて性急に行われたものであったので、反対派による合流手続きの無効訴訟が起こされた。この訴訟は1975年に最高裁の判決が下され、檀信徒側が勝利、吉田日勇は西山を退去し、後任の森本日正により、西山本門寺は日蓮正宗より離脱し、単立となった。


保田妙本寺・小泉久遠寺

保田妙本寺(ほたみょうほんじ)小泉久遠寺(こいずみくおんじ)では、日目から日道(にちどう)への血脈相承を認めず、日郷(にちごう)正統説を立てている。

この2本山のうち、保田妙本寺は1957年(昭和32年)、日蓮宗から独立し、いったん日蓮正宗に合流したが、1993年、日蓮正宗より離脱して単立となった。


要法寺

京都要法寺(ようぼうじ)の初代日尊(にちぞん)は日目の弟子で、日道とは兄弟弟子であり、大石寺とは密接な交流があり、江戸時代には大石寺の最有力の末寺として9代連続で大石寺の法主を輩出したこともあった。

しかしながら、京都市内の日蓮系諸門流の15ケ寺とかわした寛文の盟約(1665)を口実として、要法寺が、本尊の形式(「一士四尊の仏像」とするか「十界曼荼羅」とするか)に他門流の介入を受けて「一士四尊」の造仏を強いられたこと、要法寺と大石寺の間で生じた江戸妙縁寺の帰属をめぐる対立(1855-1856)などにより、大石寺との本末関係を解消するに至った。

1882年(明治17年)、本門宗の総本山・管長の選定規則をめぐる議論における大石寺の「管長は(中略)血脈相承の上人をもって任ずべきである。管長の住すべき山は(中略)すなわちそれは大石寺であり、血脈相承の嫡統連綿は大石寺の貫主以外になく(後略)」という主張に対し、要法寺は「新たな総本山を北山に創設、八山の名称を無くし、新たに大本山の七山とする、管長は七山から輪番を選出する(後略)」という提案を別におこない、大石寺の主張に真っ向から対抗した。

1950年(昭和25年)、旧末寺50ヶ寺とともに日蓮宗より分離し、日蓮本宗の総本山となっている。