絵解 近世


江戸時代(17世紀 - 19世紀)には、「絵解」はついには宗教というよりも、明らかに大道芸となった。



かつて「熊野比丘尼」「勧進比丘尼」であると考えられていた者たちは零落し、「歌比丘尼」と呼ばれ、びんざさらを伴奏に小歌を歌う芸能者であり、盛り場で売春を行う街娼(がいしょう)となっていた。「歌比丘尼」たちの年長者を「御寮」(おりょう、御寮人(ごりょうにん)に由来)といい、これが小比丘尼たちに管理売春を行った。山伏を夫に持ち、江戸浅草に「比丘尼屋」を開く者もいた。1688年(貞享(じょうきょう)5年・元禄(げんろく)元年)に完成する『色道大鏡(しきどうおおかがみ)には、「熊野比丘尼」との遊び方が指南されてあり「遊宴の名匠、比丘尼の棟梁」として、


§ 京大佛(現在の京都市東山区正面通大和大路近辺) - 祐清


§ 建仁寺町(現在の京都市東山区の建仁寺(けんにんじ)北側周辺) - 周峯、周慶


§ 江戸浅草(現在の東京都台東区浅草) - 清養、清壽、慶甫


§ 大坂鱣谷(鰻谷、現在の大阪市中央区東心斎橋近辺) - 珠養、珠英

の4か所・8人の名を挙げている




天和年間(1681年 - 1684年)には、尼僧の衣裳を着た遊女である浮世比丘尼(うきよびくに)が現れ、井原西鶴(いはら さいかく)は、1682年(天和2年)に上梓(じょうし)した『好色一代男』に、「この所も売り子、浮世比丘尼のあつまり」(「ここも、売り子や浮世比丘尼のたむろする場所である」の意)とさっそく登場させている。元禄年間(1688年 - 1703年)には、伊勢寺(いせじ)の勧進であると称して、尼僧の衣裳をまとって諸地域を漂白する遊女である伊勢比丘尼(いせびくに)が現れる。18世紀の人形浄瑠璃『国性爺後日合戦(こくせんやごじつかっせん)で、近松門左衛門は「絖(こう)の帽子の伊勢比丘尼」(「サテンの帽子をかぶった伊勢比丘尼」の意)というフレーズで登場させている。

1780年代(天明(てんめい)年間)以降には、これら売春婦としての「比丘尼」は廃れていったとされる。一方、1847年(弘化(こうか)4年)に成立した本居内遠(もとおり うちとお)よる当時の制度考証書『賎者考(せんじゃこう)には「勧進比丘尼巫女お寮」の項があり、「勧進比丘尼」を賎者(せんじゃ)として挙げている。石黒敬七(いしぐろ けいしち)によれば、幕末と呼ばれる1850年代に至っても存在していたとし、売春婦としての「比丘尼」たちの写真が残っている