厄年 由来


陰陽道に起源があると考えられているが出典は定かではない。何歳が厄年であるか、またその年齢が厄年とされる理由はさまざまである。
たとえば、平安時代の『色葉字類抄(いろはじるいしょう)では「厄 ヤク 十三 廿五 卅七 (四十)九 六十一 七十三 八十五 九十七 謂元事」、鎌倉時代に成立した『拾芥抄(しゅうがいしょう)下末八卦では清原枝賢等筆永正(えいしょう)7年(1510年)写本では「厄年 十三 廿五 卅七 四十九 六十一 七十三 九十九」、寛永(かんえい)9年(1632年)の刊本では「厄年 十三 二十五 三十七 四十九 六十一 八十五 九十九」とある。




『仏説灌頂菩薩経』(ぶっせつかんじょうぼさつきょう)では七、十三、三十三、三十七、四十二、四十九、五十二、六十一、七十三、八十五、九十七、百五」とする。

江戸時代では、『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)には、「厄歲 按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也 考之初七歳以後皆加九年 今俗別男女厄男二十五、四十二、六十一、女十九、三十三、三十七男以四十二女三十三為大厄 未知其拠」と、厄年は『素問』陰陽二十五人篇の大忌で9歳から9年毎にあるとし、いまは俗に男25、42、61、女19、33、37、男は42をもって女は33をもって大厄となす。其のよってくる所を知らず、男42の前年を前厄、翌年を挑厄(はねやく)といい、前後3年を忌む(今、俗に男の25歳、42歳、61歳、女の19歳、33歳、37歳を厄年だといっており、男の42歳と女の33歳は大厄で、男41歳を前厄、43を挑厄といい、41~43歳の前後3年は注意して過ごさなければならないといっている)とある。


黄帝内経(こうていないきょう)の『素問』に該当はないが、『霊柩』陰陽二十五人第64に「黄帝曰 其形色相勝之時 年加可知乎 岐伯曰 凡年忌 下上之人 大忌常加 七歳 十六歳 二十五歳 三十四歳 四十三歳 五十二歳 六十一歳 皆人之太忌 不可不自安也 感則病行 失則憂矣 當此之時 無爲姦事 是謂年忌」と大忌の記述がある。

天野信景(あまの さだかげ)の『塩尻』巻12には、「我国男四十二、女三十三、異邦七歳、十六歳、三十四歳、四十三歳、二十五歳、五十二歳、六十一歳」とある。
巻14では「四十二は四二なり。死に通ず。四十二の二ツ子は、父子の年にて四十四。中略して四四なり。死に通ずること。まことに愚なること也」とある。
また『燕石雑志』(えんせきざっし)一によれば、男性の25歳、42歳、女性の19歳、33歳が厄年であるという。その理由は2は陰数であり、5は陽数であり、つまり陰が上に、陽が下にあるから25歳を恐れ、42歳は4も2も陰数であり、読んで「死」、男性は最もこれを恐れる。19歳は10は陰数であり、9は陽数であり、陰が上に、陽が下にあり、したがって女性はこれを恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを「散々」といい、いずれも「サンザン」と同訓であるから最も恐れるとしている。田宮仲宣(たみや なかのぶ)の『橘庵漫筆』(きつあんまんぴつ)四でも同じように、「四十二は死と云訓にて三十三は散々と云音なり」という。林自見(はやし じけん)の『雑説嚢話』(ざっせつのうわ)では、「俗の厄年ということ、旧記にこれなきこと也。また、俗に女は三十三を厄という。女は産を大厄とすれば、三十三の産の声を重ねるが故、厄年とす」とある。


平凡社『大辞典』「厄年」の項によれば、19は重苦、25は5×5=25、後後二重後ととりなして死後のこととし、33は3・3と重なるから散々ととりなし、42は4・2と続くから死(しに)にとりなして忌むという。

神道学者の三橋健(みつはし たけし)は、経験則的にこの時期に人生の節目になるとされている年だと述べている。また、文化人類学者の小松和彦(こまつ かずひこ)は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている。



もっとも、厄年のような考え方は、日本だけのものではなく、イギリススペインといったキリスト教国、エジプトトルコといったイスラム教国にも同じような風習があるという。

また、地方に幅広く根付く風習でもあるため、単純に厄除け参りを行うだけではなく、地域を挙げての行事として祭りのように祝う事もある。広義の厄年に、七五三を含める地方もある。この場合、男性女性ともに厄年の最少年齢は3歳(数え年)になる。その他、厄年の数え方も25歳を「五五の厄年」など掛け算にするなどの風習もある。