白山信仰(はくさんしんこう)
白山信仰(はくさんしんこう)は加賀国、越前国、美濃国(現石川県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰。白山は古代より山そのものを神体としてみなした原始的な山岳信仰があり、水神や農業神として崇められていた。奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山(れいざん)として日本各地で開山するようになり、その動きの中で原始的だった白山信仰も修験道で体系化された。
沿革
養老元年(717年)修験者 泰澄(たいちょう)が加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登って瞑想していた時に、緑碧池から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊(イザナミノミコト)の化身で白山明神・妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ、以後の白山信仰の基となった。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道(ぜんじょうどう)が設けられ、「三箇の馬場は、加賀の馬場、越前の馬場、美乃の馬場也」(三馬場)と呼ばれた。
延暦寺(えんりゃくじ)の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文(かんぶん)8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料(こうぎごりょう)となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。
白山修験
白山修験は、白山頂上本社、中宮八院(護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺)、白山七社(はくさんしちしゃ。白山寺白山本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮)で一山組織を成し、「白山衆徒三千を数う」「馬の鼻も向かぬ白山権現」といわれるほど、中世には加賀国を中心に宗教的にも政治的にも隆盛を極めた。
白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代に北朝方の高師直(こう の もろなお)が吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山(くまのさんざん)間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった。
『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき)や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守(こくしゅ)を追放した安元事件(あんげんじけん)に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗(加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により中興された。
白山修験の僧兵は延暦寺の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。