著名な秘仏




日本文化史上重要と思われるいくつかの事例について略説する。




法隆寺夢殿本尊 観音菩薩立像(救世観音)

夢殿は、聖徳太子が営んだ斑鳩宮(いかるがのみや)の跡に建てられた法隆寺東院の中心堂宇である。堂内中央の厨子に安置される救世観音像は聖徳太子等身の像と伝える飛鳥時代の木彫像であるが、各種史料によれば平安時代後期の12世紀には既に秘仏とされていた。通説では1884年(1886年とも)、法隆寺を訪れた岡倉天心おかくら てんしん。日本の美術教育、美術史研究の先駆者)とアーネスト・フェノロサ(アメリカ人の哲学者、美術史家)が寺僧の反対を押し切って厨子の扉を開け、観音像は数百年ぶりに姿を現わしたとされる。この時、観音像は長い白布で覆われていたという。天心とフェノロサによる秘仏開扉のエピソードは半ば伝説化しており、それ以前の数百年間、誰もこの観音像を見た者がいなかったのかどうかについては疑問視する向きもある。




信州善光寺本尊 阿弥陀三尊像

寺伝によれば、6世紀に百済聖明王(せいめいおう)から当時の日本へ献上された日本仏法最初の仏像が、様々な経緯で長野に運ばれたものが善光寺(ぜんこうじ)の本尊であるという。善光寺の本尊は鎌倉時代には既に秘仏であったことが知られ、現代に至るまで「絶対の秘仏」とされている。ただし、善光寺には秘仏本尊を模して作られたとされる「お前立ち像」(銅造、鎌倉時代作、重要文化財)があり、この像を通じて、秘仏本尊の像容を推測することができる。「お前立ち」像は中尊・両脇侍ともに立像で、三尊が1枚の大きな光背を背負っており(一光三尊形式という)、三尊の印相いんぞう。両手の指で示す形)、服制、両脇侍の宝冠などにも特色がある。これらの特色は朝鮮半島の三国時代の金銅仏にもみられるものであり、善光寺の秘仏本尊がかなり古い時代に朝鮮半島から渡来した像である可能性は高い。日本各地の寺院にある「善光寺式阿弥陀三尊像」と呼ばれる三尊像も同様の形式のものである。善光寺では7年目ごとに「御開帳」を行っているが(開帳の年を1年目と数えるため、実際は6年に一度)、この際も公開されるのは「お前立ち像」である。なお元禄10年に無仏、偽仏などの風聞が広まり幕府が検分の役人を派遣、この際に寸法などは記録したとされている。




東大寺二月堂本尊 十一面観音立像

東大寺二月堂は、大仏殿東方の山麓に位置し、「お水取り(おみずとり)の行事で知られる。「お水取り」は正式には修二会(しゅにえ)と言い、二月堂本尊の十一面観音に対してもろもろの罪や過ちを懺悔(ざんげ)し、国家の安泰と人々の幸福を祈る行事である。二月堂内陣には大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と称する2体の十一面観音像が安置されるが、いつの時代からか両方の像とも厳重な秘仏とされ、「お水取り」の行事を執り行う寺僧もこれらの像を目にすることはない。寛文7年(1667年)の二月堂火災の際に損傷した大観音の光背のみは別途保管され、公開されている(奈良国立博物館に寄託)。この光背は銅造で高さ226cmあり、破損が激しいが、全面に線刻で多くの仏菩薩の像が表されており、奈良時代の制作と考えられている。