加賀一向一揆(かがいっこういっき)
加賀一向一揆(かがいっこういっき)とは、長享(ちょうきょう)2年(1488年)頃から天正(てんしょう)8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった一向一揆。
蓮如は文明(ぶんめい)6年(1474年)から文明7年(1475年)までの間、吉崎御坊(よしざきごぼう。福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。文明5年(1473年)には富樫正親(とがし まさちか)の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代(とがし こうちよ)を倒した。蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していたが、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。
ところが、今度は越中砺波(となみ)郡の石黒光義(いしぐろ みつよし)が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆)。また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して9代将軍 足利義尚(あしかが よしひさ)による六角高頼(ろっかく たかより)遠征(鈎(まがり)の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。長享2年(1488年)には、代わりに富樫泰高(とがし やすたか)を守護に擁立して、政親を高雄城(たこじょう)に滅ぼした(長享の一揆)。足利義尚は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元(ほそかわ まさもと)の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。以後、加賀に宗主代理の一門衆(松岡寺住持 蓮綱(れんこう)・光教寺(こうきょうじ)住持 蓮誓(れんせい)・本泉寺住持 蓮悟(れんご))が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。
ところが、永正(えいしょう)3年(1506年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川(くずりゅうがわ)の戦い・般若野(はんにゃの)の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、享禄(きょうろく)4年(1531年)には大小(だいしょう)一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された。天文(てんぶん)15年(1546年)に尾山御坊(おやまごぼう。金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。弘治(こうじ)元年(1555年)、永禄(えいろく)7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。
しかし、石山本願寺の降伏、尾山御坊の陥落により一揆は解体された。尾山御坊を攻略したのは佐久間盛政(さくま もりまさ)だった(一揆を沈静化させたのは前田利家だった、と言う説がある)。