大谷家 歴史
覚信尼(かくしんに)は、1262年に親鸞の臨終を看取り、遺骸は京都東山・鳥部野北辺の「大谷」に納められた。1272年に吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん、〔知恩院塔頭〕付近)に改葬し、東国門徒の尊崇を集める廟堂(びょうどう)として「大谷廟堂」を建立、覚信尼の長男 覚恵(かくえ)が留守職としてその管理を行うこととなった。
大谷廟堂は諸国の門徒の参詣と寄進を集める一方で、のちに留守職をめぐって覚恵の子 覚如(かくにょ)と、覚恵の異父弟 唯善(ゆいぜん)との間で争いとなり、覚如が辛うじて勝利して自己の家系による留守職の世襲を確立した。1312年、覚如は廟堂を寺院化し、大谷本願寺が成立する。元弘(げんこう)元年/元徳(げんとく)3年(1331年)、覚如は『口伝抄』を撰述し「三代伝持の血脈」(さんだいでんじのけちみゃく)を表明し、法灯継承を主張、自らを本願寺第3世と位置づける。
以来、覚如の子孫が継承した本願寺は教団の形成を進め、室町時代の第5世棹如(しゃくにょ)のとき北陸地方へと進出、第7世存如(ぞんにょ)の時代までに加賀、能登、越前、近江などで本願寺教団が形成されていった。だが、親鸞死後より教団形成に努めてきた他の浄土真宗の系統に比べて教団形成は大きく出遅れ、室町時代前期の本願寺は青蓮院(しょうれんいん)の末寺とされ、大谷家としては日野(ひの)家(親鸞の実家)の縁で九条家の家司(けいし/いえのつかさ)に准じた事も行っていたと言われている。
15世紀後半に入ると、第8世蓮如(れんにょ)の活動によって本願寺教団は日本全国へと広がるが、比叡山の弾圧などで1465年に大谷本願寺は破却される。蓮如は越前の吉崎、ついで京都郊外の山科に移った。加賀では蓮如の代の教勢拡大を背景に、1488年に加賀一向一揆が起こり、加賀の本願寺教団は守護の富樫(とがし)氏を追放し、「百姓の治める国」といわれる状況が生まれることになる。この領主不在の状況は1580年までのおよそ百年間続いた。(実際には真宗門徒の有力者が自治を行っていた。)
16世紀に入ると、戦国の動乱の中で、本願寺教団は零細な農民から地侍(じざむらい)、土豪(どごう)などの武士階層に至るその組織力を武器に日本各地で活動を活発化させるが、山科本願寺は天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)により1532年に戦災にあい、第10世証如(しょうにょ)は摂津西成郡(せっつにしなりぐん。現在の大阪市)に蓮如が開いた石山御坊へと移り、石山本願寺とする。
淀川河口の河川交通の要衝大坂をおさえる上町大地北端の丘の頂上に位置する石山本願寺を本拠地として、第10世証如は諸大名や幕府、朝廷との緊密化を図り、本願寺の勢力基盤を安定させた。一方で、証如の時代の末期から、北陸をはじめとする地方の本願寺教団では、本願寺の統制を外れて独自路線を歩む者もあらわれつつあった。
証如の子、第11代顕如(けんにょ)のとき、事実上、自立した大名権力となっていた本願寺教団は畿内に進出し、宗教勢力から領主権力を奪って統一支配を確立しようとする織田信長と対立することとなった。1570年から10年にわたって続いた本願寺と織田氏の抗争、いわゆる石山戦争は、要塞化された石山本願寺に立て篭もる顕如らと、各地で織田氏への抵抗運動を繰り広げる本願寺門徒との連携によって本願寺が優勢に立ち、信長を大いに苦しめることとなる。しかし、1574年には伊勢国長島の願證寺(がんしょうじ)が織田氏によって滅ぼされ、1575年に越前を織田氏から奪還した一向一揆が覆滅されるなど各地の抵抗がそがれ、1578年には木津川の合戦で本願寺と同盟する毛利氏の水軍が織田水軍に敗れるなど、本願寺の外では敗北を重ねていった。本願寺は依然として雑賀衆(さいかしゅう)などの支援を集めつつ強勢を保ったが、次第に敵中に孤立していき、1580年、ついに正親町(おおぎまち)天皇の勅命を引き出した信長に屈して石山本願寺を退去し、領主権力としての本願寺は敗れ去った。
このとき顕如の意向に反して抵抗を続けることを主張した長子 教如(きょうにょ)と顕如は対立。1593年に顕如が示寂(じじゃく。高僧、菩薩などが死ぬこと)すると、教如が第12世を継承するも、秀吉の意向により教如は隠退させられ、替わって3男の准如(じゅんにょ)が第12世に就任した。しかし、その後も教如は教化活動を続け、それを支持する末寺も多かったことから、1602年、徳川家康により教如は六条烏丸に寺地を与えられ、本願寺を分立させた。これより以後、本願寺教団は東西に分裂するに至った。
もともと公家の日野有範(ひの ありのり)の子息である親鸞と、日野広綱(ひの ひろつな。覚恵の父)の血統を引く東西両大谷家当主は、代々有力公家の猶子になる慣習があり、また、代々公家と通婚を続けており母系によっても公家化が進んでいった。このような経緯から明治維新後、両大谷家は華族に列し、ともに伯爵を授けられた。他の世襲門跡家や神道系の世襲宮司(ぐうじ)・国造(くにのみやつこ、こくぞう)家は男爵に叙されており、この待遇は破格であった。