お東騒動 経緯
発端
事の発端は、1924年より法主を務める大谷家第二十四代の大谷光暢(おおたに こうちょう、闡如(せんにょ))が、内局に事前承諾を得ずに「管長職を光紹(こうしょう)新門に譲る」と発表した事に始まる。「開申(かいしん)事件」と呼ばれ、内部対立の火種になる。
改革への動き
1960年代の終わり頃から、法主に権威・権限の集中する教団のあり方をめぐり、激しい意見の対立がみられるようになっていく。真宗大谷派内部にあって改革派は、次の2つの考えをかかげて、当時の教団のあり方の改革を訴えた。
同朋公議
教団の運営は、何人の専横をも許さず、本来的に同信の門徒・同朋の総意によるべきである。
宗本一体
宗派としての真宗大谷派と、その構成者たる門徒が帰依処とする本願寺は、本来的に不可分一体のものである。
1962年7月に、「同朋会運動」が発足し、そのテーマとして「真宗同朋会運動とは、純粋な信仰運動である」「家の宗教から個々人の自覚としての宗教へ」が掲げられた。「同朋会運動」が発足して、「真宗同朋会条例」が公布される。
宗派からの離脱宣言
改革への動きに対抗して1978年に闡如は、「私が住職をしている本山・本願寺(東本願寺のこと)は、真宗大谷派から離脱・独立する」という宣言を行った。
改革の実施
「同朋公議」「宗本一体」の考えに基づき1981年6月に、「真宗大谷派宗憲(宗派の憲法にあたる法規)」が改正され、次のような改革が行われた。
§ 議会制…宗派運営の権限が、選挙により選出される議員の構成する宗派の議会(宗議会〈=僧侶の代表〉と参議会〈=門徒の代表〉の二院制をとる)に移された。宗議会には参与会が、参議会には常務会が置かれる。
§ 象徴門首制…従来の「法主」「管長」「本願寺住職」にかわり、門徒・同朋を代表して仏祖崇敬の任にあたる象徴的地位として門首(もんしゅ)が置かれた。門首は内局の進達がなければ、宗務執行に対する権限を持たないこととされた。門首が内局の進達事項を拒み、進達を得ないで宗務に干渉したときは、内局は参与会と常務会の選定した門首代行を置くことを決定できる。あえて強引な解釈をすれば、前述の「擬似天皇制」の形があった故に、宗派全体を擬似国家と捉えた場合仏教用語で言う世俗の「国王」の天皇が大日本帝国憲法での「主権者」から第2次世界大戦敗戦後日本国憲法で「象徴天皇制」へとその位置付けが大きく変更されたためそれに合わせての動きとも取れる。
§ 宗本一体…1987年には、大谷派と包括・被包括の関係にあった宗教法人「本願寺」と真宗大谷派と合併がされ、本願寺は法的に解散登記が実施され、宗派と一体のものとされた。「本山寺法」も廃止され、以後、東本願寺の正式名称は「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)となる。「本廟」とは、同信同行の門信徒が宗祖親鸞の教えを聞信する根本道場・帰依処としての、親鸞の「墓所(はかどころ)」の意味。御影堂門に「真宗本廟」の額が掲げられていた。
浄土真宗東本願寺派の分立
この改革に対し保守派は、当時同派の東京別院東京本願寺住職であった大谷光紹(おおたにこうしょう。興如(こうにょ。大谷光暢の長男)を中心に、教学の構築・教団の運営は従来通り伝統的権威と権限とを有する法主を中心になされるべきであるとの姿勢を保ち、この見解に賛同する末寺・門徒も少なくない状況であった。
これらの人々は、1981年6月15日、大谷派における宗憲の改正と時期を同じくして、東京都知事の認証を得て住職を務めていた東京別院東京本願寺を大谷派から分離独立させる。
そして1988年2月29日に、同寺を中心にこれに賛同する末寺・門徒をまとめて「浄土真宗東本願寺派」を結成し、大谷光紹が東本願寺第二十五世法主に就任すると宣言する。
その他の動き
浅草別院の分離独立の後も、これとは別に、大谷光暢の次男 大谷暢順(おおたに ちょうじゅん。經如〈本願寺維持財団(現在の本願寺文化興隆財団理事長〉)・四男 大谷暢道(おおたに ちょうどう。後に光道(こうどう)と改称する。秀如(しゅうにょ))をそれぞれ支持する勢力が、同じく教団のあり方をめぐる意見の対立から大谷派を離脱した。