避諱 日本での




§ 日本では通字(とおりじ)の習慣があり、中国のような避諱の習慣は定着しなかったといってよい。但し天皇を諱(御名)で呼ぶことについては、古くからこれを無礼としてタブーとする習慣があり、現代においても明仁天皇を「明仁さま」などと諱で呼ぶことはためらわれる傾向が根強い。また昭和天皇当時から、直接呼ぶ事はせず「陛下」と表現される。


§ 常陸国の「白壁郡」(しらかべぐん)8世紀末に「真壁郡(まかべぐん)と改称された。これは光仁(こうにん)天皇の諱である「白壁」を避けたものとされる。


§ 古代日本の有力氏族「大伴氏(おおともし)は、淳和(じゅんな)天皇(諱は大伴)の即位に伴い氏を「伴」と改めている。


§ 江戸時代以前は目上の人に対して諱で呼ぶことや通字でないほうの字(偏諱)を使用することは避ける傾向があった。なお、大坂の役においては家康の諱を侵したことが徳川方が戦を仕掛ける口実になっている。


§ 明治から昭和には日本でも避諱が採用されたことがある。仁孝(にんこう)天皇(恵仁、あやひと)、孝明(こうめい)天皇(統仁、おさひと)、明治天皇(睦仁、むつひと)の諱の内、「恵」、「統」、「睦」がそれぞれ欠画とされた。また秩父宮妃貞明(ていめい)皇后の名「節子(さだこ)」に遠慮して「節子(せつこ)」の名を「勢津子」と改めた。諱ではないものの、笠置シズ子(かさぎ シズこ)三笠宮(みかさのみや)に遠慮して「三笠」姓から芸名を改めた事も有名。またやしきたかじんの父親が皇室尊崇者で、たかじん(隆仁)の本来の読み「たかひと」を「陛下と同じ読みとはとんでもない」と変えたという。