国分寺(こくぶんじ)



国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫(ちんぶ)するため、各に建立を命じた寺院。壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。

寺格の一つともいえる。正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。





天平13年(741年)国分寺建立の詔(みことのり)が出され、僧寺は僧20人をおき、尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府(こくふ)区域内か周辺に置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国東大寺法華寺(ほっけじ)は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

この詔の以前から国ごとに、天平9年(737年)には釈迦三尊像の造像と大般若経を写すこと、同12年(740年)には法華経10部を写し七重の塔を建てることの詔を出している。


律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして、現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や、公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。