日本の尼
日本では一般に、出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性を指す。尼入道、尼女房、尼御前(あまごぜ)、尼御台などと呼ばれた。
日本最初の尼は、584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等(しば だっと)の娘・善信尼(ぜんしんに)ら3人である。彼女たちは百済に渡って戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。741年(天平13年)、聖武天皇の発願で国分寺(こくぶんじ)が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺(こくぶんにじ)も置かれた。しかし、鎮護国家の思想が強まるにつれて僧侶の持戒(じかい)を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭(いと)う風潮が生まれた。そのため、尼に対する授戒は拒絶され、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる。これに対して淳和(じゅんな)天皇の皇后であった正子内親王(まさこないしんのう)が女性のための戒壇(尼戒壇)を作ろうとするが反対に遭って果たせず、一条天皇の中宮であった藤原彰子(ふじわらの しょうし。藤原道長の娘)が自身の出家を機に道長が建てた法成寺(ほうじょうじ)に尼戒壇(あまかいだん)を設置した(万寿(まんじゅ)4年(1027年))が、同寺の荒廃とともに失われた。中世には貴族出身者は「さげ尼」(さげあま)と称して、髪を肩の辺りで削いで「尼」となることができた(勿論、授戒が受けられないために正式な尼にはなれない)。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、離婚したり、老婆となった時など、姿かたちだけ「尼」となった。源頼朝妻の北条政子は落飾後に藤原頼経(ふじわらの よりつね)の後見として権勢を振い、「尼将軍」と呼ばれた。
鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、叡尊(えいそん、えいぞん)もかつての国分尼寺の総本山であった法華寺(ほっけじ)再興の際に同寺に尼戒壇を設置した(建長元年(1249年))。彼の真言律宗の布教の影響によって次第に尼への受戒が許容されるようになった。鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山(あまござん)が定められた。
民間の巫女は修験の山伏と夫婦になって祈祷や託宣(たくせん)を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)の伝説が生まれた。熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼は六道図や熊野那智参詣曼荼羅(くまのなちさんけいまんだら)などを絵解きし、江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。
尼は日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれたが明治維新以降は儒教的な家父長制(かふちょうせい)の価値観が旧武士階層以外にも広まり、これに加えて国粋主義も台頭した昭和期には日蓮正宗のように尼を廃止した例もある。