浄土真宗 名称について



開祖親鸞は、釈尊・七高僧へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらにその思想を展開することに力を注いだ。法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに浄土宗西山派(せいざんは)などからの批判を受ける事につながる。



なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』(こうそうわさん)において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。

親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖(いっこう しゅんしょう))を「一向宗(いっこうしゅう)と称した例もある。



近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。明治5年(1872年太政官正院(せいいん)から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。