大規模寺院における稚児



平安時代頃から、真言宗天台宗等の大規模寺院において、剃髪しない少年修行(12~18歳くらい)が現れはじめ、これも稚児と呼ばれるようになった。皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」(かみちご)、頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」(なかちご)、芸道などの才能が見込まれて雇われたり腐敗僧侶に売られてきた「下稚児」(しもちご)がいた。禅宗では喝食(かつじき、かっしき)と呼ばれた。



髪型垂髪(すいほつ)、または、稚児髷(ちごまげ、ちごわげ)で、平安貴族女性と同様の化粧をし(お歯黒も付ける場合もあった)、極彩色の水干(すいかん)を着た。又、女装する場合もあり、その場合、少女と見分けがつきにくかった。

真言宗、天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、このような稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(但し上稚児は対象外)。中世以降の禅林ぜんりん。禅宗寺院)に於いても、稚児・喝食は主に男色、衆道(しゅどう)の対象であった。



特に、天台宗にいては「稚児灌頂」という儀式が行われ、この時に「○○丸」と命名された。これを受けた稚児は観世音菩薩と同格とされ、神聖視された。

また、大法会(だいほうえ)の際に雅楽散楽(さんがく)延年(えんねん)を上演する場合が多く、他の寺の僧侶からも注目を集めた。

これらの稚児は成人に達すると還俗(げんぞく)する場合が多いが出家して住職となった者もいたらしい。