仏壇 起源
仏壇の起源については「持仏堂(じぶつどう)→仏壇説」と「魂棚(たまだな)→仏壇説」の2説ある。古代インドでは、土を積み上げて「壇」を作り、そこを神聖な場所として「神」を祀っていた。やがて風雨をしのぐために土壇の上に屋根が設けられた。これが寺院の原型である。それを受け継ぎ仏壇の「壇」は土偏である。白鳳(はくほう)14年(西暦685年)3月27日、天武天皇が「諸国の家毎に仏舎(ほとけのみや)を作り、乃ち仏像(ほとけのみかた)及び経を置きて以て礼拝供養せよ」との詔(みことのり)を出した。それにちなみ全日本宗教では毎月27日を「仏壇の日」に制定している。玉虫厨子(たまむしのずし)は現在に伝わる最古の仏壇と言われる。ただし、この詔は現在の仏壇の直接の起源ではない。
持仏堂→仏壇説
貴族などの上流階級においては、持仏堂(じぶつどう)を持つものもあった。藤原頼道の平等院鳳凰堂や足利義満の鹿苑寺(ろくおんじ)などがある。また『更級日記』の作者、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が薬師仏(やくしぶつ、薬師如来)を等身に造って屋敷内で祀ったというのも仏壇の源流である。竹田聴洲(たけだ ちょうしゅう)によると、上記のような持仏堂が縮小・矮小化し屋内に取り込まれることによって仏間を経て仏壇に変化したとしている。
室町時代、浄土真宗中興の祖である本願寺八世・蓮如(れんにょ)が布教の際に「南无阿弥陀仏」と書いた掛軸を信徒に授け、仏壇に祀ることを奨励した。仏壇を作る際に本山を真似たところから、現在の金仏壇(きんぶつだん)の元となる。それゆえ、浄土真宗では仏壇に対しての決まりごとが多い。なお、現在でも浄土真宗において、仏壇の本尊は掛軸であり、菩提寺を通して本山から取り寄せたものとされる。
なお、仏壇は日本独自のもので、仏教国であるタイなどでも見られない。それは寺院が生活の身近にあり、家の中に改めて小さな寺を作る必要がないからであり、供養壇としての流れが加わっているためでもある。モンゴルではゲルの中にチベット仏教の仏壇を設けることがある。
魂棚(たまだな)→仏壇説
盆に先祖や新仏の霊を迎える祭壇のことを魂棚(盆棚(ぼんだな)・水棚ともいう)という。形状は地域・時代によって様々であるが、四隅に竹や木で四本柱を建て板を渡したものや茶卓を使用する場合もある。柳田國男はこの魂棚が盆のみの設置から常設化され仏壇になったとしている。現在、仏壇の起源については竹田のいう「持仏堂→仏壇説」の方が有力視されている。
普及時期
江戸時代、幕府の宗教政策である寺請(てらうけ)制度により、何れかの寺院を菩提寺と定めその檀家になることが義務付けられた。その証として各戸ごとに仏壇を設け、朝・夕礼拝(らいはい)し、先祖の命日には僧侶を招き供養するという習慣が確立した。社会が安定し、庶民の暮らしが豊かになってきたことも背景に、庶民にまで浸透した。また日光東照宮などに見るように、元禄期の社寺建築技術の隆盛が各地に影響を与えた。金仏壇産地の多くは、その頃に宮大工が興したと言われている。この点についても諸説存在する。