大蔵経(だいぞうきょう) 中国
北宋版系
最初の大蔵経刊本は、北宋の太祖(たいそ、趙匡胤(ちょう きょういん))・太宗(たいそう)の治世、971年 - 977年(開宝4 - 太平興国2)にかけて蜀(四川省)で版木が彫られ、983年(太平興国8)に、都の開封(かいほう)に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『開元釈教録』(かいげん しゃくきょうろく)によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏、高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。983年に入宋した東大寺僧の奝然(ちょうねん)は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・南禅寺(なんぜんじ)および東京・書道博物館に1巻ずつ所蔵されている。
金の時代には、1147年 - 1173年にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、1933年に山西省の趙城県(ちょうじょうけん)にある広勝寺(こうしょうじ)で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。1984年より、この蔵経を底本にして『中華大蔵経』(影印版)が発刊される。また、元の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。
契丹版系
契丹(きったん)の990年 - 1010年頃に開版された大蔵経。契丹が後晋から割譲された燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)の地方で、この地にあった隋以来の房山(ほうざん)の『石経』(せっけい、せっきょう)のテキストも参考にして、国家事業として行なわれた印刷事業であった。この大蔵経も金版と同様に幻の大蔵経であったが、1982年に山西省の応県(おうけん)にある古刹、仏宮寺(ぶつぐうじ)の木塔(もくとう)に安置された仏像内から、12巻の『契丹版』が発見され、房山雲居寺(ほうざんうんごじ)の『石経』との関係などが確認され、毎行17字の標準形式であったことが実証された。
南宋版系
南宋から明代にかけても各地で私版の大蔵経の作成が続いた。それは、福州(福建省)等覚禅院で11世紀末に開始された『等覚禅院版』(1075年 - 1112年)に始まる。これは、北宋版系や契丹版系の国家事業としての開版とは異なり、信者の寄進による私版の事業であった。以後、同じく福州「開元寺版」(1112年 - 1151年)や湖州の『思渓版』(1126年 - 1132年)、蘇州で開版された『磧砂版』(1232年 - 1305年)、杭州の『普寧版』(1277年 - 1290年)といった蔵経の印刷が続いた。この系統も、標準形式である毎行17字である。
明末になると、それまでの巻物ではない新しい形式の袋綴じ本の『万暦版大蔵経』(徑山蔵)が出版された。清朝の大蔵経である『龍蔵』や、後述の日本の『鉄眼版』、『卍字藏』は、この系統に属する。