八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)



東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の彌宜(ねぎ)の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。



平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社(はちまんじんじゃ)が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。



明治元年(1868年神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐(うさ)八幡宮石清水(いわしみず)八幡宮放生会(ほうじょうえ)は、それぞれ仲秋祭(ちゅうしゅうさい)、石清水祭(いわしみずさい)へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭(ほたるほうじょうさい)平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。


しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟(おおのぼり)が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。