日蓮本仏論(にちれんほんぶつろん)
初期の仏教では、釈尊が出家して6年間修行して悟りを啓(ひら)いたとしている。これを始成正覚(しじょうしょうかく)という。しかし釈尊滅後、やや時代が下ると、法華経などのような一部の経典において、たとえば如来寿量品第十六には、「我実に成仏してより已来(以来)、無量無辺百千万億那由陀劫(むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたごう)なり」などと書かれ、釈尊は、生まれる前にすでに仏であり長い間、法を説いていたという思想が生まれた。これらの思想は、現世における修行で仏になったのではなく、長い長い輪廻(りんね)の間、気の遠くなるような修行(歴劫修行=りゃっこうしゅぎょう)の果てに、ようやく成仏ができるという思想を生み出すもととなった。
しかし一方で、それほどまでの長く困難な修行はとても出来ない、という拒否反応を招くこととなる。ここに登場したのが、末法思想(まっぽうしそう)である。釈尊は法華経に説かれるように五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)に始まる有始有終の仏である。したがって、釈尊の教えは末法では役に立たない(白法隠没=びゃくほうおんもつ)。末法の世では釈尊の代わりに、無始無終の久遠元初(くおんがんじょ、生命と宇宙の始まりの時)の根本仏である日蓮の教えによって救われる、とするのが日蓮本仏論である。