日本における曹洞宗
日本における曹洞宗は道元(どうげん)に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山(てんどうさん)で曹洞宗の長翁如浄(ちょうおうにょじょう)に師事し、1226年に帰国した。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」(ぶっしんしゅう)と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺(こうふくじ)から迫害を受けた日本達磨宗(にほんだるましゅう)の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖 瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)とその後席 峨山韶磧(がざん じょうせき)の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(そうけいざんえのうぜんじ)(638~713)と洞山良价(とうざん りょうかい)(807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞土民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
教義
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。
曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如(しゅうしょういちにょ)」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案(こうあん)を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。
また、道元の著書である『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)自体は仏教全般について記しており、不立文字(ふりゅうもんじ。文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄である。)を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。
2005年現在、三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げる。