時宗(じしゅう)



時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍(いっぺん)。総本山は神奈川県藤沢市清浄光寺(しょうじょうこうじ)(通称遊行寺、ゆぎょうじ)。





時衆と時宗

他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、えどじだい以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導(ぜんどう)の「観経疏(かんぎょうしょ、観無量寿経疏)の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。




思想

浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。

それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。日常を臨命終「時」(臨終、りんじゅう)と心得て、常に念仏を唱える。故に「時」宗といわれる。





歴史

中世

一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(たあ)真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。

4代目を巡って当麻道場無量光寺(むりょうこうじ)と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽(さるがく)師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、同朋衆(どうぼうしゅう)仏師(ぶっし)作庭師(さくていし)として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗曹洞宗(そうとうしゅう)の布教活動によって侵食されることになった。



近世

江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖(かんじんひじり)が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺(こんこうじ)を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治廃仏毀釈であると思われる。



近代

1871年(明治4年)、寺領上知令(じょうちれい)や祠堂金(しどうきん、祠(ほこら)・堂(本堂)を修理・管理するためのお金のこと廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、金城湯池であった島津藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。昭和に入り、1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師(しょうじょうだいし)号を贈られている。これに対し、太平洋戦争大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州奉天(ほうてん)に遊行寺別院を設けるなど協力した。戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲(たあ いちうん)上人が病気により引退した。藤沢上人からの退位は時宗史上初である。





法式

戒名(かいみょう)は法名(ほうみょう)と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を付けることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。