事相と教相(じそうときょうそう)



真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と教相(きょうそう)が重要視される。


事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂(かんじょう)護摩(ごま)観法(かんぽう・かんぼう)契(いんげい)真言(しんごん)などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。真言宗の主要経典「大日経」は教相の経典、金剛頂経は事相の経典である。

教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。

事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、慈雲(じうん)は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。

9世紀半ば(平安時代中期)から、事相の研究が盛んとなった。益信(やくしん)に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝(しょうほう)を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢(やたく)十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。