日本の律宗
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753年)、鑑真(がんじん)が6度の航海の末に、唐から招来し、東大寺に戒壇(かいだん)を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。後に唐招提寺(とうしょうだいじ)を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗(なんとろくしゅう/りくしゅう)の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは「四分律」(しぶんりつ)によるものであったが、平安時代の最澄(さいちょう)や空海はこれを支持せず、空海は「十誦律」(じゅうじゅりつ)を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧(かんそう)の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範(しっぱん)・明恵(みょうえ)が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎(かてい)2年(1236年)覚盛(かくじょう)・有厳(うごん、ゆうごん)・円晴(えんせい)・叡尊(えいそん、えいぞん)の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓(じせい)受戒を行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の「十誦律」を中心とした真言律宗(しんごんりっしゅう)を開いた。更に京都泉涌寺(せんにゅうじ)の俊芿(しゅんじょう)が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊芿の「北京律」と「南京律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、中世には禅宗(ぜんしゅう)と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍(みょうにん)・友尊・慧雲(えうん)が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。