業(ごう)


(ごう)とは、仏教の基本的概念である: कर्मन् (karman) を意訳したもの。サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。

業はその善悪に応じて果報を生じ、によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。





仏教における業

釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、因果論の主張者であった。しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。

比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。

– 『中部経典』 (Majjhima-Nikāya)



三業

· 身業(しんごう、Kāya) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。

· 口業(くごう、Vāca) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。

· 意業(いごう、Cetanā) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。

仏教では、これら身口意の3つの悪業を離れ、善業を努めることが大事とされる。また密教では、身密・口密・意密の三密により仏の微妙(みみょう)なる働きを思惟し修行する。