三昧(さんまい)

三昧(さんまい、Samādhi, サマーディの音写)とは、仏教における ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のこと。サマーディは三摩提、三摩地などとも音写される。

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Samādhi という語は、インドの瞑想の伝統の中で培われたものであり、仏教だけでなく、共通の背景を持つヒンドゥー教・ヨーガの用語としても用いられている。

仏教の阿含経典では、この三昧に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとする。続いて空無辺処(くうむへんしょ)識無辺処(しきむへんしょ)無所有処(むしょうしょ)非想非悲想処(ひそうひひそうしょ)4段階があるとする。前の4つを「四静慮(四禅)」、後の4つを「四無色定」としている。さらに深まった状態として「心のあらゆる動きが全く止滅した状態(滅尽定)」があるとしており、以上9の段階を「九次第定」と数えている。

以上の過程は、三界(欲界・色界・無色界)の階層構造とも関連している。上記の過程を通して、欲界(欲望を原理とする日常意識)は「散地」となる。色界は、初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の階層に分かれてゆく。無色界は空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想処天の階層(四無色定天)に分かれてゆくのである。それらは三界九地の階層をなすことになる。


釈迦の得た悟りというのは、この四無色定天をも超えた何らかの境地にあると後の人々から理解されている。仏典によれば、釈迦は出家してすぐに無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めた、という。

初期大乗仏教では三昧を重視し、般若経典では「百八三昧」等が説かれている。

隋の天台智顗(ちぎ)は、仏教にとっては三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がないとし、止観は精神の止息状態だけでなく、「観」となって働かなければならない、すなわち八正道の正見がなくてはならない、と説明している。 摩訶止観による四種三昧(ししゅざんまい)は、次の四つに分けられている。

§ 常坐三昧(一行三昧) - 90日間座り続ける。

§ 常行三昧(仏立三昧) - 90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。

§ 半行半坐三昧 - 本尊の周りを歩く行と、座る行を行う。

§ 方等三昧 - 『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる。

§ 法華三昧 - 法華経』に基づき37日間または21日間行われる。

§ 非行非坐三昧(随自意三昧)