禅定(ぜんじょう)
禅定(ぜんじょう、サンスクリット:dhyaana、パーリ語:jhaana)は、心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。座禅や止観(しかん)の止行(しぎょう)であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする。仏教においては、瞑想に至るために禅定に勤しむ教派が多く、禅定を得る止行に対して、勧行(かんぎょう・自分の心の本性を観照する修行)も重視される。サンスクリットの dhyaana の音写である「禅」と、その意訳した「定(じょう)」の複合語で、三昧と同義語である。また、禅定によって心を乱されない力を定力(じょうりき)または禅定力(ぜんじょうりき)と呼ぶ。
元来は、大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜のうちの第五禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)のことである。禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟(しゆい)して散乱の心を定止することを指している。
阿含経典では、この状態に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。これが「四静慮(四禅)」である。次に空無辺処(くうむへんしょ)・識無辺処(しきむへんしょ)・無所有処(むしょうしょ)・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の4段階があるとする。これが、「四無色定(しむしきじょう)」であり、さらに九次第定、百八三昧とつづく。
また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とはセットになっている。
中国では、この禅定による修行を廃し頓悟(とんご・長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと)を目指す禅宗が成立した。それは禅定(=座禅)に新しい定義を与え、従前の仏教を真向から否定するような面を持つものだったが、唐代に隆盛を極めた。宋代に栄西・道元らによって日本にもたらされたが、そこでは再び禅定修行が復活し、武士の主要徳目ともなり流行した。
日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても、禅定を得るために様々なアプローチが派生してきたといわれる。曹洞宗・臨済宗における座禅はもちろんのこと、天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し、真言宗では印相(いんそう、いんぞう)を結んだり、陀羅尼(だらに)や真言を唱える身体性を重視する。浄土宗や浄土真宗では称名念仏(しょうみょうねんぶつ)である南無阿弥陀仏をくり返し唱える。時宗においては踊りながら念仏を唱え、日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える。いずれのアプローチも、思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる。