熊谷徹『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』新潮社 | Winterecord

熊谷徹『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』新潮社

顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折/熊谷 徹

¥1,365
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 『顔のない男』とは、なんと恍惚な響きだろうか。夏休み中のアルバイトからいかに逃れるかという難題に頭を悩ませていたある夏の日、私は本書に出会った。その瞬間、私には本書から現代スパイの真髄を学び取る必要がある、そう確信した。そんな本書を8月の新刊ブックレビューとして私はお薦めする。

 戦後東ドイツの秘密警察シュタージの一部門たるHVAのトップとして、西側陣営へスパイを送り続けた『顔のない男』、マルクス・ヴォルフが本書の主役である。東ドイツの諜報機関率いるヴォルフの顔を、西側陣営の諜報機関は20年以上も特定することができなかった。そのため、彼は『顔のない男』として名を馳すこととなったのである。本書は東ドイツの誕生、崩壊と共に歩んだ、彼の劇的な生涯を綴っている。
 私の着眼点は一つ。世界の諜報の歴史に名を残した『顔のない男』の考えるスパイの真髄とは何かである。
 本書から読み取ると、それは逆説的ではあるが、『顔の見える』スパイを駆使することだったのかもしれない。まず、現代のスパイ活動には人間から情報を直接入手するヒュミント、電話の盗聴などによるコミント、電子信号などを傍受するシギント、偵察衛星が高空から撮影した映像を分析するイミントなどがある。ヴォルフは、その中のヒュミント、つまり「人間」を最も信頼すべきものとして利用したのである。尤も、そうした背景には西側諸国に大きく劣れをとっていた東側諸国のコンピューター技術による制約が影響していたのかもしれない。だが、「どんなに科学技術が発展しようとも、機械による情報収集が人間によるそれを凌駕することはない」とヴォルフは断言する。
 私はその言葉に諜報活動の深みをみた。確かにCIAは技術的には世界最先端のものを持っているのかもしれない。しかし、それをもってしても同時多発テロは防げなかったし、イラクの大量破壊兵器の保有疑惑も正確に見抜けなかった。人類の歴史において、売春に次いで世界で最も古い職業と言われる諜報活動の成功にはやはり、古典的ではあるが「人間」の徹底的な利用は欠かせないのかもしれない。