文明論之概略 | Winterecord

文明論之概略

文明論之概略 (岩波文庫)/福沢 諭吉

¥840
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 ―「試験の世の中」―

 これは『文明論之概略』のなかでわたくしが最も気に入った言葉である。第3章において、何事も実験を重ねながら、その試行錯誤によってより高度な真理を追求していくものである、という文脈で使われている。人はある答えに至ろうという思いのあまり、極端な思想にとかく傾倒しがちである。特に当時の福澤の眼にはそれが、まざまざと見えて仕方がなかったに違いない。
 本書内では、何かに没頭する、その弊害を決して忘れてはいけない。ある程度の余裕ともいうべき、距離感が必要である、と述べられている。考えてみれば、対象との間の距離感、これを保とうとする不断の努力というものは学問を志すものの最も根幹をなす部分でもある。個人的な見解であるが、わたくしは、学問というものは「平衡感覚」を保つための練習である、と考えている。つまりは学問を通した試行錯誤の中で養うべきであると考えていたのだが、こうした命題を「試験の世の中」と簡潔に表現した福澤の着想には、ただ詠嘆するばかりである。


 ―感想―

 素直な気持ちを述べれば、わたくしは福澤を「先生」と呼ぶのに少し違和感がある。
 わたくしは現在、慶應義塾大学に在籍し、その文化を楽しんでいる。この事実をもってすれば、勿論「先生」と呼ぶことは決して不思議ではないだろう。しかし、わたくしは福澤の代表的著作にほとんど触れたことがないのである。にもかかわらず、福澤の残した思想を学ばずして福澤を「先生」と呼ぶことは一種の思考停止といえよう。ここでなんとかこの違和感を凌駕すべく、福澤を代表する古典『文明論之概略』に挑みたいと思う。

 それでは、内容へと入りたい。
 当初、わたくしはタイトルが何を意味するのかわからなかった。幕末、明治初期という時代を生きた福澤がなぜ「文明」について述べるのだろうか。
 まず、文明の語義を明確にしたい。本文中で福澤は「文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云ふなり」と述べ、さらに「文明とは結局、人の智徳の進歩と云ふて可なり」と結んでいる。つまり文明の意としては、生産手段の発達等に伴う生活水準の向上だけでなく、人々の精神性の進歩という面も含まれるのである。ちなみに『文明論之概略』で福澤が深く言及していくのは後者である。
 福澤は、国の政治は人々の文明の程度に強く依存すると述べている。さらに当時の状況から、日本の独立を考えるには決して避けては通れない道、それが文明であると考え、本書を著したことがわかる。

 そして、読み進めていくとふと気付くことがある。それは、本書の「回りくどさ」である。章立てを見ればわかるのだが、決して本論を急ごうとしていない。思考における方法論を国外の学者たちの考えに依拠しながら、福澤の考えを余すことなく伝えぬくための土壌を築こうとしている様が伺える。率直にいえば、わたくしにとってはこれを理解するまでが非常に辛かった。少なからず読破を諦めかけた。しかし、逆に言えば看破するのに労を要するほどの導入部、これこそが福澤の思想の真髄を伝える道程の遠さを物語っているのではないだろうか。国民の「文明」の程度と、福澤の考えるそれの程度を大きく乖離していた。最終的には、自国の独立を論じながらも、本書の大部分を人々の啓蒙にあてている。この点にこそ『文明論之概略』の現代にも読まれる名著たる所以があるのではないか、と思う。
 戦後、高度経済成長期を経て、経済的には世界的にも揺ぎない地位を確立したにも関わらず、わが国は「自国の独立」が危ぶまれ続けているといわれている。たしかに日本の政治家たちが戦後歩んできた道を辿れば、その要因として様々なことが挙げられるだろう。しかしながら、わたくしは本書を読み終えた後、「人民、愚に還れば、政治の力は次第に衰弱を致さん」という福澤の言葉を、思わず反芻してしまった。100年という月日をもってしても、福澤によって語られた言葉の意味性は決して減じてはいない。

 国を憂う。この困難。その在り方。それらの愉しみと、深遠さ。それらを『文明論之概略』に学んだ気がする。