久しぶりに教会へ行った。

何のために?

こころの平安を求めて。


夏に受洗することに決めて以来、わさわさわさわさいろんなことが起こる。もちろん因果関係はないと思うけど、看護師のOさんが急に病院に戻ることになって以来、職員のことでは落ち着くまでが大変だった。数も増えたし、増えた分だけ心労も募る。次から次へと・・・ 不景気だから仕方がないのかも。


娘が春休みになり、デッサンのほうの送迎、旅行、先週の日曜日に進級式(入学式)を迎え、何となくホッとする。幸い、仕事も軌道に乗って順調だし、娘も毎日楽しいみたいで、わたしも気が緩んだのだろうか。太った。なのに、皆から痩せたでしょと言われる。なんでだ? 顔だけ痩せたのかな・・・ わからん。


礼服の類がほとんど全滅。入学式は終わってしまったが、今後のことがあるので、久しぶりにデパートへ出かけた。すると、ありえないと思うのだけど、半額以下でセールをしているショップがほとんど。わたしがそちらから選んでいると、職員が涙ぐんでいるんだよね・・・ 暑いのにエアコンもなく、暖房が入っているわけでもない。普通はありえない。そこまで不景気なのだろうか。何となくもうしわけなくなり、スカーフだけは定価で買った。(どーでもいいか・・)


心の中では思うわけ・・・ 皆、大変そうなのに、こんな贅沢してもいいのかな、と。昔だったらまるで気にしたこともないのだが、このところFさんやMさんのことがあり、いささか良心の呵責が。それでいて、せっかくの入学式のシーズンなのに、あてが外れて、ショップはこの価格でも売れないのか、とばかりに店員が・・・


・・・・・・そういうことばかりで、疲れる。


この程度のことでバテていたら、とてもじゃないけど教会のアクティフなんて、わたしにはむりむり。


そこで、正直に神さまに相談しに行こうと思った。わたしには十字架なんて背負って歩けませんし、アクティフなんて本当はやりたくないんです、と。


教会へ行く途中で急にお腹が痛くなった。聖週間のせいか人も多く、少しお祈りしたら楽になったのでそのまま帰ろうと思ったけど、何となくすっきりしないので、誰もいなくなってからまた聖堂に入った。


が、しかし、誰もいないけど、平日のお昼のせいか、教会の床が揺れるほど隣の道路にひっきりなしに通る車やバイクの音がうるさい。あの教会で何かがうるさいと思ったのは初めてかも。四月はあわただしいのだろうか。


教会の中はとても静かなんだけど、騒音が激しい。それがずっと続いて落ち着かない。日常的今世紀的騒音の中で教会のランプは灯り、つまりは聖霊はそこに。なんかミスマッチだと思いながら、落ち着かない。


そこで、聖書を開いたら、ちょうどペトロが3度イエズスを知らないと言った箇所。今日は木曜日なので、ちょうど今夜がゲッセマネの夜なのだと思いながら、読んだ。


繰り返し読んでいるうちに、ふと我に返ると、車の音が聴こえた。


つまり、その箇所に惹かれて、ずっと読んでいる間、わたしは何も聴こえなかった。


カサブランカの香がするので、花を探したら、いつもは片隅にあるだけのマリア像が百合の花で飾られていた。


そのときに思ったわけ・・・ ペトロの裏切りもイエスさまはご存知だった。とすれば、わたしの泣き言も想定内のたわごとにすぎない、と。だとしたら、どうでもいいような気がしてきて、その後出勤する予定だったけど、家に帰ってきてしまった。


貧しい人は幸い。

でも、心の貧しい人、が幸い。

では、心の貧しい人とは?


日本語だと、心は豊かなほうがいい。なのに、心の貧しい人とは?


要するに、あれこれ欲張らない人のことを心が貧しい人と呼ぶらしい。仙人みたいな人のことでしょうか。それなら意味が通じる。神の国は仙人のものか?


このところ、すごく勤労意欲はあった。少しでも働かないと・・・ というか、お金の苦労の話ばかりなので、誰もいない職場で事務仕事をしながら仕事の電話を受けたりすると、何となく自分が頑張っているような気がして・・・


でも、よくないね。

頑張るのはやめよう。車の騒音ばかり聴こえて、お祈りに集中できなくなる。


今日は、やけに月が美しかった。


(コリント一 5. 1-13)