橋本 治
これで古典がよくわかる

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一気に通読。

古典がわかるようになるというより、日本語の変遷の歴史がメンタリスティックに理解できるようになる。


ひらがなやカタカナが使われる以前から始まり、ひらがなとカタカナの利用のされ方の違いなど、そういう意味では古典(文学史)がわかったような気になってしまう。つまり、明らかに、漢文というのは男性が使うもので、今でも漢字とカタカナで書かれた活字といえば古い法律関係の本などを思い浮かべてしまうことを考えれば、いかに堅苦しい世界か理解できる。


じゃ、なんで、男がひらがなを使ったか?

要するに、女性は漢文などまるで理解できないものであり、理解できないことが女性のたしなみであった時代、女性のために何かを書こうと思えば、ひらがなを使うしかなかった、ということがよぉ~っくわかった。


書き言葉と話し言葉の違いの伝統も、どうして長い間、漢字とひらがなとが同時に使われた書き物がなかったのかも、よぉ~っく理解できた気がする。


漢文。

あれって昔から胡散臭いと思っていたら、やっぱそうだったのかという気分。

漢字と記号とカタカナ。

なんか胡散臭いでしょ?


要するに、どーやって読むのかわからなくなるから、カンニングのつもりで書き込んだのが最初。


ひらがなの文学。

あれはどちらかといえば、話し言葉の世界。とてもくだけたもの。お話するような調子で、気楽に書く。法律に関する書類がいい加減だったら大変だから、これはいい加減なものではない、という意味で漢文、あるいは漢字+カタカナが用いられるのとは逆。


問題は・・・・ひらがな文学の場合には、とてもコムズカシイことを子どもが語ろうとするととてもわかりにくくなってしまうのと同じような感性で読まなければならないということかも。


和歌も(随筆も)、それがいかにくだけた人間的な書き物であるか理解できた気がする。


文字を使って自分の気持ちを表現するってとても人間的なことなんだろうし、それを技巧と言ってしまうのは少し寂しい。素朴な感情、複雑な感情、心境、心境の変化、それを詠みこむ。そして気持ちが伝わってきたとき、初めて感嘆する。


古典嫌いが歌を詠むようになり、そういうアンビバレントなところが少し解消できた気がする。

いや・・・逆に、どうしてわたしが古典が嫌いになったのか、そういうシンプルな疑問が解決したような気がする。コムズカシイ注釈やわかりにくい文章。ストレートに読むのではなく、いつも他人の注釈を気にしながら読まなければならない古典なんて面白いわけないじゃん。