よく考えなくては・・・

日本だとクリスチャンは100人に1人と言われているが、キリスト教にもいろいろあって、・・・悩む。


この前、友達から電話があり、受洗のことで相談したら、彼女のところは結婚と同時にカトリックに改宗したご主人が今度はハリトリス教会へ改宗し、ハリトリスと言われてもわたしにはよくわからない。くま先生はプロテスタントらしく、土浦にセント・ポール系の教会があり、そこの信者さんらしい。ピンポ~ン、とやってくるのは、新興宗教系のクリスチャン。


一口に教会と言っても、いろいろありすぎて悩む。


学校でもそうでしょ? カトリックもあればプロテスタントもあるし、まるで校風が異なる。一口にクリスチャンと言うのは簡単だけど、カトリックの友達もいれば、プロテスタントの友達もいる。


全然、違う。


どこが違うか、おおざっぱな言い方をすれば、雰囲気・・・


イタリアへ行っても、同じようなことを感じた。おおざっぱにカトリックで括っても、一つの町の中にいくつもの教会があり、半島のあちらとこちらに違う教会が建っている。


それで結局、ノラクラしながらひとりで聖書を読んでいる。この習慣は、おそらくは祖母の影響かもしれない。仏教にもいろいろあり、祖母は禅宗に馴染めず、実家の日蓮宗への愛着が強く、ひとりで巡礼に行ってしまう。それで、ひとりであれこれ本を読んでいた。家の中に仏壇がふたつあるのは・・・よくない?

仏壇というのは、先祖のためだけにあるのではないことを祖母から学ぶ。


大抵は、先祖の供養のために仏壇がある。日本だとそれがノーマルな感性ではないかと。


ややこしいからね。ややこしいから、ひとりで聖書を読んでいるくらいがちょうどいい。そういう感覚は、家の中に仏壇があり、毎週神社や寺へ集まるという習慣のない日本人的感性に近い。


で、仏教にもいろいろあって、どこが違うのか訊くと、「教え」らしい。昔、母に訊いたら、祖母が言うには、日蓮宗というのは、法華経という最高のお経。つまり、組織や派閥的仏教ではなく、経に立ち帰れ、ということらしい。仏陀や阿弥陀や観音や、いろいろ宗派によって違う。でも、日蓮宗というのは仏教のプロテスタントのようなもの、とわたしは理解している。


元は一つ。


いくつもの流れがあり、最後には海にたどり着けばいい、という気分。


聖書もたくさんあり、また何冊か注文した。ヘブライ語もギリシャ語もわからないし・・・

聖書にも著作権があることを知り、それならばいくつか読んで、自分の言葉をみつけよう、というか、訳した人の雰囲気で、聖書でもまるで雰囲気が違うことに気がついたから。


まあ、いいや。

外へ向かうとややこしいから、次第に内向していってしまう。ことなかれ主義というか、喧嘩しても損だから自分のことだけやっていたらいい、というのもどこか日本人的なんだろうな。