どうして小説が流行らなくなってきたのか・・・

それはあっさり語ればニーズの問題である。


受験を例に取れば、かつて統計的データを用いてその年の傾向や対策について語ろうとしたとき、母親ではそれがなかなか理解できなかったそう。このため父親に説明し出したところ、お受験パパが数多出没するようになったらしい。


わたしは、サルトルの小説を読んだことはないけれども、翻訳書を本屋で眺めたときに、やたらとひらがなが多用されていたことに驚いた。つまり、どうしてそのような小説が必要になったのかといえば、とてもわかりにくい思想をわかりやすく説明するために小説という技法が用いられたのであり、そういった傾向はあらゆる芸術に共通したものであった。


ややこしいことは理解できなくても、音楽や戯曲などを通して触りを理解する。どうしてそういったややこしいことが必要だったのか、あえて書く必要もないだろう。


今はそうやって回りくどい説明をしなくても、ストレートに通じる時代らしい。


時代が小説やアートに期待しているのはもはや啓蒙ではなく、娯楽。海外に行けない時代には読んだり見たりすることで想像するしかない。未知の世界。だからこそイマジネーションが膨らんだ。


が、しかし・・・

あっさり語れば、「地球の歩き方」が発売されて以来、自分の足で歩くことを覚えてしまった人たちにもはやフィクションはつまらない。


出版業界に打撃を与えているのは実はインターネットではなく、そういった現実主義なのかもしれない。そして、理屈っぽくなった言語の枠を破壊できるのは一枚の絵や写真なのかもしれないと思うことも多い。あるいは、実際に行くこと。


一つわかっているのは、ややこしく言っても通じないことでもメタファーなら静かに理屈を越えて浸透していくということ。


はっきり言えば、啓蒙と娯楽とはまったくベクトルが違う。