短歌というのは、一つの沈黙の方法である。

理屈が飽和した時、あるいは、理屈で語るのがかったるくなった時、何となく自然とうたを詠むようになっていた。詩ではなく短歌というのも言葉を増やさないための手段だと思っていたのだけれども、結局、連作として詠み込んでいけば同じことのような・・・


宗教や哲学の話は疲れる。わたしは心理学の人だからなおさら。しかも巷では心理学というとわたしの知らない意味を持ちながらこの言葉が徘徊しているため、なおさら語るのがかったるくなる。


そのすべてがかったるくなれば、薔薇の花が咲いていたことをボソッと語りたくなる。


ヴェイユの詩集の冒頭、「ポール・ヴァレリーの手紙」を読み、わたしはしばし作歌を止めている。通常ならば、わたしは大変素直な歌人でもあるために、作品からインスパイアされればされたなりにそのままを詠むようにこころがけているつもり。ところが、「構成への意志」の重要性を書くヴァレリーの言葉にしばし立ち止まる。


はてはて・・・・

わたしの作歌に足りない要素があればまさしくこれである。つまり、構成への意志・・・

一つの作品、あるいは作品群に仕上げようという構成への意志が欠如しているのは以前から感じていた。つまりは、やみくもに2万首と決めているため、それ以外の要素はそれから考えればよろしいのではないかという先急ぎ感。


それは一つにはわたしが作歌歴が浅いからだと勝手に勘違いしていたけれども、実はわたしの怠惰さから来るものではないかと感じている次第。


エネルギーを集約させるのがつらい。

ある種の構成への意志を持ち、それを作品群としてまとめるための不毛な努力を考えると、ひねもすをのんびり作歌に明け暮れているほうが楽しい。それと構成への意志を持つことは主題を持つということであり、果たして短歌とはそういう世界なのだろうかと考えてみる。


わからない。

とりあえず、それが詩であることは感じてはいるものの、一つの歌の中に構成への強い意志のある作品をひねり出すためには、それ相応の忍耐と努力とインスピレーションが必要。それを考えると、勝手に手の動くままに、ある時は自由筆記のように言葉を選ばず、その日その時を詠み込んでいくほうがはるかに楽しい。


楽しいだけでよいのか?


ならば、人生を楽しみましょう、という構成への意志を持ち、作歌を続ければよろしい?


まあ、いいか。

いずれにせよ、いつかは取り組まなければ課題には違いない。構成への意志を持つためには激しい動機が必要である。激しい動機が欠如したまま歌人になってしまったためにのらくらのらくらしている。むしろストレスを排除しながらのらくら詠んでいるだけのほうがはるかに楽しい。


そういう意味では、帰着しなければならない着地ポイントが必要という点で、詩のほうが構成への意志を持ちやすい。その着地ポイントへ向かいながら詩は踊る。つまりは、57577の中にもどこかに着地ポイントを入れなければならないということで、それがどこに来るのか・・・どこに置くかで微妙に生きたり死んだりする。


まあ、いいや。

そうやってややこしいことを考えるからうたが詠めなくなる。

それでいて、わたしは何かを学ぼうとしているらしく、その何かをキャッチするためにこのように駄文に励む。