咽頭がんを手術して、発声が困難になった市議会議員の方が、「人による、代読」を希望したが、「パソコンによる、音声代読」しか認められなかった。

ルールは、多数決で決まる。
本人の意思に関わらず、「ルールはすでに決まったのだから!」と、それ以降、任期期間中、「人による代読を」という意志は、人が作った『壁』によって、聞いてさえもらえなかった。

『バリアフリーの歴史は、機械による代用で、文明は発達した。
なので、パソコンの音声による、代読も、人として、恥じるべきではないことだ。』

「なぜ、パソコンによる、音声代読しか、認められないのか?」という問いに対する、答えはこうだった。

果たして、バリアフリーは、機械による代用により、文明は発達したのだろうか?

機械を使うのは、あくまでも、人間に意思によるものだ。
「使いたい」という意思が働かない限り、機械は使われることさえない。

第三者に、意思を伝えたいとする時、果たして、機械による、抑揚のない言葉では、伝わるだろうか?
私ならば、いったん活字にした文字を、「代理人の声」を通して、公な場に、発言したい。
気持ちのない機械ではなくて、気持ちのある人の声によって、発言したい。
代理人にも、私の発言内容が理解されて、そこで初めて、「代理発言」は、可能なことだと思うのだ。
それこそ、人によって、作られた壁は、なくなると思う。

ただ、文字を読むだけが、発言ではない。
ただ、形だけの、バリアフリーが、壁をなくすことではない。

スロープを設置したら、人の手がなくても、可能なのか?
スロープを上れない人が来たら、「介護者と一緒に。1人では来ないで。」と言うのだろうか?
ならば、初めから、スロープがなかった時代の方が、助け合う環境が、自然と、できてたのではないか?

より「壁」を作ってしまうような、バリアフリー論は、いらない。
バリアフリーは、機械でもなく、環境でもなく、人の心にあるんだと、私は思う。