ニッポンの教養アンコール | 甲羅に似せて

甲羅に似せて

蟹は甲羅に似せて穴を掘るそうです。私も日々の想いを
蟹が穴を掘るように綴っていけたら・・・。

「検索ちゃん」が終わってから爆問さんにはご無沙汰していましたが、何日か前の午後、『爆笑問題のニッポンの教養』のアンコール放送がやっていて、途中からですが見入ってしまいました。


「わたしはここにいる」というタイトルで、目が見えず耳も聞こえない東大教授、福島智さんの回でした。


福島さんの話す語調には聾を感じさせるイントネーションはありましたが、ほとんど気にならないくらいで、話す速さと、無駄のない言葉の選び方、論旨の的確さにびっくりしました。前を見るくりっとした瞳には何も映っていないようで、声のする方に向いています。隣にいる女性が、彼の両手に自分の手を重ねて、彼の指をキーボードを叩くように、動かしています。指点字というのを、初めて目にしました。


障害と健常者の境目は?という話題で、「ぼくもタマ1個なので、障害者です。障害者手帳は持ってませんが。」と話す田中さん。「ホ―キンスみたいな人を見ると、障害があっても彼の偉大さは変わらない。」というような例を出す太田さん。


それに対して、「障害というのは社会が決めるんです。」と福島さん。彼は1983年(だったかな)障害を持ちながら首都大学東京に入学して一躍時の人になったそうですが、そのとき困ったのが、彼にアパートを貸してくれる人が全然見つからなかったことだそうです。障害者手帳も、社会が障害というものを定義しているひとつの例だとか。普通の人と同じように何かをしようとして、立ちはだかる社会の壁。それは、健常者にはなかなか見えないものかもしれません。


ホ―キンスを挙げた太田さんに対して、「それなら、才能もなく天才でもない、普通の障害者はどうですか。社会のお荷物?生きている意味などないのでしょうか。」と、福島さんは尋ねます。


そこで彼が例に出したのは、ナチスドイツの収容所に入れられたことのある、フランクルという人の本に書いてあった、「絶望=苦悩-意味」という公式でした。絶望+意味=苦悩と変換すると、意味のない苦悩が絶望で、それに新しい意味を見出すことが出来れば、それは絶望ではないと気づいたそうです。


誰もが生きているだけで意味がある、価値があるのだという結論に達するまでの、障害を持っていることのどれだけの悩み苦しみに、長い年月、この人は自分の心に自問自答していたのだろうということが思われて、話を聴きながら少し涙ぐんでしまいました。


その話に心打たれたのは、自分に生きている意味があるのかという問いかけは、障害のあるなし関係なく、先が見えない今の時代に生きる多くの人の心の深い所にも、存在しているように感じるからです。


答えが出なくても、苦悩することに意味があると思えば、絶望しなければ、それは明日につながるんだよという、メッセージをもらった気がしました。


田中さんが、背伸びせずに自分の感覚に引き寄せながら話しているのもよかったし、太田さんが言葉を選びながらも、自分の心にある正直な気持ちを伝えようとする様子も太田さんらしいなと感じました。自分に正直であろうとすることは、意外と難しいものです。


健康な人にはどうしたって、障害のある人の気持ちも生活も、わからない部分が多くて、どう接するのか悩むことが多いのですが、理解することがすべての始まりなんですね。


思い出しながら書いたので、正確ではないかもしれませんが、印象に残ったので書き残しておきます。