昨日の朝の番組で、今若い女性の間で太宰治が流行っているというニュースをやっていて、へぇ~と思いながら観ていました。
この人の写真と言えば、頬杖をついて思索に耽っているものが有名で、私もこれしか見たことがないのですが、女性に人気なのはイケメンだということも理由のひとつなのだとか。若い時の写真も2、3枚出たのですが、タニショーさんにちょっと似ている気がしました。整った目鼻立ちとお坊ちゃんな感じが。
それと、ダメさ加減が母性本能をくすぐり、私が守ってあげたいと思わせるのだそうです。
読み始めが印象的で、一気に読み進んでしまうというのも言ってました。
なるほど。
私が太宰治に出会ったのは、中学3年くらいの時でした。それまで「走れメロス」という、胡散臭い友情の物語を書いた人という印象だったのが、夏休みの読書感想文であとがきから読んでいたら、破滅型の作家だと知って、自分の認識とのギャップに、興味を惹かれていったのです。
確かに書き出しがどれも印象的でした。
その頃の自分は、とりあえず日常を過ごしながら、理想とかけ離れた不器用な自分を扱いかね、人の気持ちを推し量ることに疲れて、途方に暮れていた思春期のただ中にいました。太宰作品の中に自分と共通する気持ちの揺れを見つけた時は、悩んでいるのは自分だけじゃないんだなあと、同志を見つけたような嬉しさと親しみを感じたものでした。
そう感じるのは自分だけではなくて、読む人ごとに、自分に話しかけてくれているように感じるのが、この人の文章の魅力なのだということに、後になってから気づいたのですが。
読み物から文学へ移っていった入口に、彼の文学はありました。ダメだなあこの人と思いながら、そんなダメさ加減をさらけ出して生きた姿は、愛すべきものだったなあ。
そんな自分の記憶と思い合わせながら、時代が変わった今も読まれることの、作家の幸福を思います。