記憶のかなたに | 甲羅に似せて

甲羅に似せて

蟹は甲羅に似せて穴を掘るそうです。私も日々の想いを
蟹が穴を掘るように綴っていけたら・・・。

「感動しているところ、悪いんだけど。」と、用事があるらしい娘。「なんでそう、思ったの?」と聞くと、「静かにテレビを見ている時って、そうだから。」…へぇ…。


その時観ていたのは、夕刻のNHK。若年性認知症の人がやっているという楽団の人の話でした。若年というより壮年の男性2人や、彼らが属するグループホームの人たちの楽団が、オーストラリアで演奏する様子が映し出されていて、そこで聴いている人たちもまた、若年性認知症なのでした。


「私は誰になってしまうのか?」という本を書いたオーストラリアの若年性認知症女性の著書に触発された、グループホームの代表の人の関係で実現したことらしいです。(一度見ただけなので、記憶が正確ではない)


対話する時間に、何かぼんやりとしている感じの楽団の男性のひとりが、「自分も、この本の題名のように、自分がどうなってしまうのかと、よく考える。」と話しだしました。「頭がずっともやもやしている時があるかと思うと、霧が晴れたようにすっきりすることもある。」


そういう感じなのか…、と思いました。記憶とか思考というのは、自分をひとりの人格たらしめているもので、そこに自信がなくなってしまうというのは、どんなにか不安なことだろう。そういう意味で、私は普段、認知症というのはガンなんかより、よっぽど怖い病気だなと感じます。


オーストラリアの女性が書いたその本の最終章に、タイトルに対する自分の考えが書かれているそうです。「内なる自分」を見つけることだというようなことを、言っていた気がします。絵画や音楽や、自分の好きなことに接することで、内なる自分と道がつながることもある、楽団の彼は、若いころから音楽をやっていたので、音楽が重要な役割を果たしているのかもと。


感動していたというとちょっと違うけど、そんな話を聞きながら、ちょっと涙ぐんだりしていたのでした。(年とともに涙もろくなっています)


年を取ってガタが来たとき、拠り所になるのは、それまで自分が大切に思っていたり、好きだったことなんですね。その人のエッセンスのようなものかな。自分がボケたら、いったいどんな風になるんだろうと、あまり考えたくないけど思ってしまいました。