秋葉原の大量殺人事件から2日目。だんだん、容疑者の生い立ちや、事件前の様子が明らかになってきました。
衝動的な犯行で、突然未来を奪われた被害者の人たちのことを思うと、気の毒で言葉もありませんが、こうした事件が起こっとき、この事件を引き起こしたのが、もし自分の子どもだったらと、どうしても考えてしまいます。
彼の両親も、まさかそんな事件を引き起こす事など、想像していなかったのではないでしょうか。一瞬にして加害者の親になってしまったショックは、いったいどれほどのものだったのか。
そして、テレビでは、卒業アルバムや文集が公開され、犯罪に至る心の闇をなんとか見つけ出そうと、いろいろな解釈をつけています。
あれは、なんとも後味が悪いものです。誰にだって、そんなことを思いもよらない、まっさらな幼年時代があるのですから。そこまで踏み込んで、言いたい放題をしてもいいものなのでしょうか。
「勝ち組の奴はみんないなくなればいい。」と思い、ワイドショーで大騒ぎになることを望んだ加害者。報道されたことから推測するしかありませんが、心を開いて自分の弱さを出せる友人や家族が、周りにいなかったのかもと思います。優等生だったのに、進学校で挫折して、その気持ちを引きずりながらも一生懸命働いていたのに、リストラ宣告で、自己否定されたように感じて、ショックだったのでしょうか。
「そんなことくらいで、甘い。」という識者の意見もありましたが、どうしていいかわからずこんな事件を引き起こしてしまった彼こそ、「なんでこんなことになってしまったんだろう。」と、途方にくれているのではないかと、思ったりします。
彼の成長に足りなかったのは、家族のつながりや愛情ではなかったのかなと、想像してみます。
そして、自尊感情・・・自分を愛し、自信を持つということが、人が生きていく上で、どんなに大切な事かということを、改めて思います。
家庭の中で、無条件に愛されて育つということでしか、それは生まれないんじゃないでしょうか。
以前、いろいろな国の子ども達に取材したアンケートを見たとき、「自分に自信がない」と答えた日本の子どもがとても多かった事が、印象に残っています。
成績の良い優等生を求める親の期待に答えようとがんばっているものの、要求のレベルの高さに自信を失っている子どもの姿が見える気がして。
だから、この事件から少しでも学ぶ事があるとすれば、危ないナイフは売らないとか、歩行者天国はやめようとかいう、対症療法的なことではなくて、愛情に満たされて、自分に自信が持てるような家庭をどうやって作っていくかということを、考えることが必要なんじゃないでしょうか。
でも、家庭って、どうやって作るか教わるものじゃないし、何が大切か、家族って何なのか、それぞれの家庭で考えてつくっていくしかないから、難しい問題です。
「家族は、お互いに期待する事が必要。」だと、何かの講演会で聞いたことがあります。
その人がいなければ困る、いたから助かったという、家族を実感できる役割が必要なのかもしれません。
それにしても、私と同じようにぞっとしている、同じ年頃の子どもを持つ親は、けっこういるんじゃないでしょうか。
同じ家に住んでいてさえ、年頃の子どもの心は、なかなかつかめないものです。