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scale out!!

こゆくてマニアックな自己満足。

ちょっと遅れた話題ですが。

報せを耳にした時は正直、「あ、そういえばまだ生きてた」って気持ちもあったんですが・・・


1965年以来新作を発表してないのだから、もちろん復活なんて期待してなかったけど。

村上春樹の訳が出たことで、「ライ麦畑」のホールデン・コールフィールドは、これからも「上手く折り合いのつけられない人たち」にとってのヒーローになるんだろうし。

そうした人たちはホールデンから卒業できない恥ずかしさを感じながら、大人になってまた、何かを想うんだろうな。


最初に読んだのは姉貴が持ってた「大工よ、屋根の梁を高く揚げよ」。最後に読んだのは、「ハプワース16、1924」。

好きなのは「フラニーとズーイ」、「倒錯の森」、「エズミに捧ぐ」。


ふと気になるのは、沈黙後のサリンジャーが貴重なインタビューで「今は自分のために小説を書いている」と語っていたこと。

だとしたら、彼の家には膨大な量の未発表作品が眠っているかもしれない。

サリンジャーはそれに対して、何か遺言を残してるんだろうか。


もし死後出版されたとしても、それが故人の意向に逆らったものでない限りは、僕は読んでみたいと思います。


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)/J.D. サリンジャー

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フラニーとゾーイー (新潮文庫)/サリンジャー

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ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)/サリンジャー

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サリンジャー選集(3) 倒錯の森〈短編集2〉/J.D.サリンジャー

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スタジオでした。ボーカル抜きで。

dr.氏が「俺とつっちーでグルーヴは作れる」言ってくれたのが嬉しかったです。

後は歌にどう合わせるかなんだけど・・・それはやっぱり今日確認できたコトがあった上でのコト。リズム隊同士の呼吸あっての臨機応変。



飲み会でdr.氏が、「つっちー達のバレンタインて・・・どうなの?」


どうなんだろう??

チョコあげたこと無ければ、もらったコトもない・・・。


知り合いのカップルさんが、二人でチョコレートケーキ食べたってのは知ってるけど・・・

「内気な人がさ、こういうのチャンスにしてとか、ないの?」


うーん、カップル同士のイベントととしてなら知ってるけど、告白のタイミングとしてってのは知らない・・・

でも、デパートのチョコレート売り場がどうだったって話も聴くしなあ。


ホモの皆さん、バレンタインデーってどうしてるんすか???

色事って疎いから分かんないんです、マジでマジで。

あんましセックスとか興味ないし・・・。(再度強調)



話してたら、g.氏が、こんなことを。

「つっちーの世界ってさ、すげー人いっぱい居るじゃん。ホントに上手いな~て思う人も居るし、俺の趣味とか別にしても、話してて音楽にホントに真摯な人とかいっぱい居る。俺はそっち側には行けないけど、そういう人を目の当たりにできるだけで幸せだし、それはつっちが居なきゃ知り合えない人たちだった」



僕はつくづく、ここに居て良かったと思います。



僕個人の価値なんてホントにちっぽけだし、掃いて捨てる程度のもの。

知っての通り人格的にもミュージシャンとしても、何の取り柄もない。


ただ、別の世界でやってて、何の接点も無かった人同士を引き合わせる。

それが出来れば、僕の使命は果たせたと思います

卑下してるんじゃなく、そこに満足感を感じるんです。マジで。


僕は、双子座です。

守護星は水星。ヘルメス、マーキュリー。

翼の生えたサンダルをはいた、「伝令の神」です。

神話では、神々同士のメッセンジャー。

それが天命だとさえ思います。



いや、また酔っちゃったなあ。

起きたらこれ読んで、また赤面してることでしょうね(笑)
すんません、前回の続きです。

僕と仲良くしてくれる友達には、心の痛みに苦しんでる方が本当に多いです。


明るくて会えば楽しい気持ちにさせてくれたり、そういうありがたい存在だった人だったのに、「まさかあの人が・・・」みたいに病んでしまった、そんな人も居るし。

だから、僕と知り合った頃には既に患ってしまっいた人でも、もともとは周囲を明るくするような、そんな人だったんだろうなって察したりもします。


僕はそちらの方の専門家ではありませんから、理由もない不安や恐れや、そういった心の状態については、医師やカウンセラーに任せるしかないと思っています。

それが「病気」であるとすれば、素人の感傷ではどうにもできない領域もあるはずだから。


事実、何年も病気と付き合ってる方の文章で、

「中途半端な介入はせず、スルーして下さい。なまじな同情で付き合うと逆に怪我をします。腫れ物を触るような接し方になってしまったとしても、無理もないと思います」

そんなことを書かれていたのを目にしたことがあります。


そう、中途半端に同情的ななことを言ってもその人の「理由の無い苦しみ」を取り除いてはあげられない。

中途半端・・・というと語弊がありますが、言う側の熱意を軽んじているのではなく、あくまで言ったことに対する効果の面からの意味です。


「がんばれ」と言ってはいけない・・・とはよく聴く戒めですが、だからといってじゃあ、「のんびり」だの「ゆるく」だの言ってあげさえすれば良いのか。

それもなんだか、とても安易に使われ過ぎてる気もします。


だから僕は、相手の情緒的な乱れに対しては、ただ沈黙するようになりました。

そのかわり、「このように思うのだがどうだろう」と、自分で自分の問題に向き合おうとしている時には、及ばずながらいくらでも手伝いをしようと思います。



心の痛みに苦しむ人に接していて、昨日、ふっと感じたのは、「それが痛ましければ痛ましいほど、この人は『生』を求めているのではないか」ということ。

もとより僕は専門的な知識も持っていませんので、間違っているかもしれません。

ただ、身体的な病気の諸症状が、実は健康な状態を取り戻すための苦闘の現れであるように、もしかしたら・・・と。


そしてさらに、考えてしまいました。

じゃあ僕は、どうなのだろう。

この人たちが『生』を希求して苦闘しているほどに、僕は望んでいるのだろうか・・・と。