おじいちゃんの話。


私が生まれたとき、お父さんは仕事で1年間海外へ行っていたので、そのまるっと1年間を祖父母の家で育てられました。


夜泣きが激しかった私は、唯一おじいちゃんに抱っこされると泣き止んだそうです。


小学生になっても、自分の家と同じくらいに居心地が良くて、よく一人で泊まりに行っていたの。


おばあちゃんのことも、おじいちゃんのことも、両親と同じくらいに大好きで。


中学生以降は、勉強が忙しくなって泊まりに行けなくなったけど、


おばあちゃんがおうちまでお勉強を教えに来てくれたり、


お出掛けは必ず祖父母も一緒に行っていたり。


大学は私が東京へ行ったことで、物理的な距離が生まれたけど、


単身赴任中のお父さんと一緒に、少し広めのマンションに住んでいたので、


旅行に来ていたおばあちゃんたちは、よくおうちに遊びに来てくれていた。


娘が産まれてから、地元へ帰ったけど、
それ以降は、少し外出がしづらくなってしまった祖父母の食料品の買い出しなどに、車で連れて行ってあげた。


私と娘と祖父母の4人で大分や近場に旅行に行ったりもした。


ここ数年は私の仕事が一気に忙しくなって、休日なかなか動くことができずに、行けるときだけお買い物に連れて行ってあげていた。


ある休日、祖父母を海へ連れて行ったのだけど、


何十年ぶりかの海に、とても喜んでいた。


私は、海は娘とよく行っていたので、こんなに喜んでくれるなら、もっと連れて行ってあげていたら良かったなと、ぼんやりと思っていた。


2年前の桜の季節。
その頃も、なかなか休日に動く体力がなかったけど、ようやく近所の公園に祖父母を連れて行くことができた。

お花見をとても喜んでくれたので、
そのまま、少し遠いところまでお花見のはしごをすることにした。


遠出した場所は、おそらく祖父母は初めて行ったところで、とても喜んでくれた。


来年も行けることなら、必ず行きたいなと思っていた。お出掛けが大好きな祖父が喜んでくれるのが嬉しかったから。


でも。その2年前が、祖父と行った最後のお花見になった。


その翌年、祖父は転倒して頭を打っていた。


何ヶ月もかけて脳出血を起こしていて、気付いたときには緊急手術をしなければいけなかった。


その手術が桜の季節の少し前。


頭の手術をしたら、もうおじいちゃんに会えないかもしれない。
助かったとしても、もしかしたら後遺症とかで、もう今までのおじいちゃんには会えないかもしれない。


瞬時にそう判断したので、仕事を数時間だけ抜けさせてもらった。(もちろん仕事は帰宅後に居残りでやった)

私が病院に到着したときには、手術は終わっていて、手術室から移動するおじいちゃんに会えた。


もちろん、寝た状態だったけど、意識はあって普通通りだった。


少しホッとした。


でも、これがおじいちゃんの側で、まともに会えた最後から2回目だった。


おじいちゃんの頭の手術は、成功したかと思ったのに、脳出血が再発して2度目の手術となった。


そして、それがきっかけで後遺症がでた。


後遺症が少し大変で、退院できずに転院となった。


数ヶ月して、転院先の病院から、一旦有料老人ホームへ移動となった。


"その時"のおじいちゃんは、特養に入るには要介護度が足りなかった。


それが一つの分かれ道だったのかなぁ。


この時点では、治療で後遺症が落ち着いたら、いずれは自宅へ戻るはずだった。


もちろん、この間の病院やホームは、コロナ禍のため面会不可。


有料老人ホームで、おじいちゃんは誤嚥性肺炎を起こした。


でも、これは後から分かった事実。


正確には、老人ホームから再び病院へ入院する際の、入院前検査にて誤嚥性肺炎を起こしていることが判明。転院先ではなく、急性期の総合病院へ救急搬送。


総合病院で医師から伝えたれたのは
「誤嚥性肺炎を起こしています。ただ、胃に残っている食物の腐敗状態から、かなり前から誤嚥性肺炎を起こしている。熱もある、発語困難、歩行困難となっていて、施設は気づいていて放置していたとしか考えられない。出るとこ出れますよ」と言われたそう。


もちろん施設に起こった事実は伝えたそうですが、何の謝罪もなく、知りませんでした!と毅然とした態度で言われたそうです。
うちの両親はそれ以上は言わなかったみたい。
私なら怒っていたかもしれない。


搬送先が急性期の病院で長くはいられなかったので、おじいちゃんは慢性期の病院へ転院。


転院のタイミングでなら、介護タクシーを降りて病院に入るまでの一瞬の時間、おじいちゃんと対面で会えると聞いて、駆け付けました。


そして、それが間近でおじいちゃんを見た、最後になりました。


誤嚥性肺炎を起こして、歩けなくなっていたおじいちゃんは、ガリガリに痩せていて。


両親から聞いていた様子よりも、もうかなり危なそうに見えて。


言いたいことたくさんあったのに、口に出したら涙が溢れそうだったから私、ほとんどまともに話しかけられなかった。


一年ちょっとぶりに会えたおじいちゃん、車椅子の肘掛けに乗せている腕をあげるのもきつそうで。


心なしかおじいちゃんの目に涙が溜まってて、少しだけ嫌な予感がしたんだ。


おじいちゃん、もしかしたらこれが最後かもと思っているのかなって。


会った時は、腕をあげるのも難しそうだったのに、別れ際、反射的に手を挙げてくれたの。


私、それが本当に嬉しくて。


コロナ禍じゃなかったら、出来る限りの頻度でお見舞いに行ったんだけどなぁ。


そのあと、定期的におじいちゃんのお洗濯物を病院に届けに行っていたのだけど、もちろんおじいちゃんには会えなくて。


ただ、奇跡的に最後におじいちゃんがいたICUが、お洗濯物を渡す場所の目の前で。


亡くなる前に2回だけ、おじいちゃんの姿をはっきりと見ることが出来たんだ。


最後の一回に限っては、看護師さんがベッドも起こしてくれて。
「奥様とお孫さんが来てくれてますよ〜」って声掛けまでしてくれて。
おじいちゃんは自分で体をひねれなかったみたいで、私たちのことは「見えない」って言っていたから、おじいちゃんからは見えなかったかもしれないけど。


その日、運良く声も聞くことが出来て。
少し遠目ではあったけど、コロナ禍では最大限見れたかなって。


その後にもお洗濯物を届けに祖母と娘を連れて行ったけど、娘は小学生だから院内に入れてもらえず💦
しかも、その日はICUの扉が閉まっていたから、結局見れなかったんだ。


娘はおじいちゃんと一年半ちょっと会えていないままだった。


私がずっとシングルだったから、私にとってのおじいちゃんは、娘にとっても自分のおじいちゃんだと思っていたみたい。


私、もういい年なのに、おじいちゃんのお通夜もお葬式もずーっと泣いてた。


そして、今でも涙が出る。


私にとっては、おじいちゃんが半分お父さんみたいでもあり、とても優しくて温かい存在だったから。


私が母子家庭になっても、仕事を変えても、何があっても私のことを責めずに、明るく励ましてくれた。


そんな存在って本当にいなくて。


私は、かけがえのないおじいちゃんを失った。


もっともっと、一緒に色んなところに行きたかった。連れて行ってあげたかった。


経済的に余裕ができたら、もっともっと恩返しがしたかった。


この2年で、身長が一気に伸びて、おばあちゃんの背も追い越してしまった娘をおじいちゃんに見せたかった。


ほんと、コロナ禍で最後まで会えなかったことがとっても悔やまれる。
(本音を言うと、誤嚥性肺炎を何日も放っておいた施設も許せない)


もう、あの優しいおじいちゃんに会えないんだな、声が聞けないんだなと思うと本当に悲しい。
無限に涙が出てくる。


人はいつかは死ぬと分かってはいる。


でも、本当に死んでほしくない。





ごめんなさい、当初は施設のことを書こうと思っていたんです。
施設の中には、明らかにいつもと様子が違うお年寄りを平気で放置できるところもあるの?そんなに手が回らないの?とか、そういう怒りを書こうとしたのですが、結局怒ってもおじいちゃんは戻ってこないので…
ほとんど思い出話になりました。