鉛製の卵形カプセルに入って冷凍保存されていたら、100年のつもりが80万年眠っちゃってました。

というお話。

目覚めた世界では、街はどれい街と人間街に分断されている。
最初主人公が目覚めた場所は人間街。そこには葉緑体を移植手術し、光合成できるようになった緑色の人類がすんでいる。彼らは500年の寿命を持ち、食べることも必要ない。日々なにをしているかといえばギャンブルである。

そんな中、主人公は腹が空いたので食べ物を食べたいと訴える。しかし食べるという行為自体がない彼らはその食べるという行為を理解できず、相手にしてくれない。
そこで主人公は、どれい街にいけば食べものがあるのではないかと考え、どれい街にいかせてくれと頼む。帰ってきた答えは、「犯罪でも侵さなければどれい街に行かせることはできない」というもの。


仕方なく鉛の卵内に残っていた非常食をたべた。そして間もなく逮捕され、奴隷街に送られてしまう。
なぜか?
人間がいにおいて唯一の罪は食べるという行為であったからだ。


どれい街に追放されてみると新たな事実発覚。
どれい街にいるのは主人公と同じような人類であった。
さらに、今度はどれい街のほうが本当の現代であり、人間街のほうは彼らは緑色の人類が自称しているだけであるという。

主人公は自分と同じような人類のいる世界にきて安心するが突然大声をあげて泣き出す。

この泣き出すシーンで物語終了。




作者は何が言いたいんでしょう?

とりあえず、その世界においてどっちの人類が主役かということはわからない。
向こうからしたらあっちが主流、こっちからしたらこっちが主流。主人公はどれい街のほうの人類に近かったから結局そっちに行ったし、そっちで安心していた。
身体的特徴のちがいからどれい街と人間街が相入れない?人間街も多様なんだよね?肌の色とかで。
現代の私たちに対して、人間同士なんだから黒とか白とかで差別すんなよ、他の生き物ともうまくやりなさいよってこと?

しかしなんで最後泣いたんだろう?
世界が続いてる嬉し泣き?本来の目的が果たせなかったかなし泣き?
まぁ多分、お互い現代人だと思い込みながら相入れないどれい街と人間街をみて、これが80万年後、、??と思うと悲しくなったのだろう
ラスベガスをぶっつぶせ を見た

とりあえずケヴィンスペイシーがかっこよかった!
彼はビヨンド・ザ・シーを見て以来とてもすきになった
なんてゆーか、ひょうきんでダンディー笑


映画の内容は、ラスベガスのカジノでブラックジャックのカウンティング技術をつかって大儲けしよう!
って内容。

見る前は、
MITの学生が主役なんだし、数学理論ガチガチの天才的な手法で大儲けするのかな?

って思ってたけどそんなことはなく、実際は

既存のカウンティングという技術を、主人公の非常に冷静かつ回転の速い頭で実践することで大儲けしてやる!

っていう、なんとなく地味な感じの中身。


しかし、冒頭のシーンにあるように、「なにか人と違う実績を残した?君はただのインテリとどう違うの?」
という問いに対してのこのカジノでの行動だということを意識してみよう。

なんでも否定するのは簡単で、この映画をたいしたことないストーリーだというのはとても簡単なこと。
冒頭の「君はどうすごいわけ?」と問うシーンがあるからこそ「うーむ」と思いながら見れる気がする。

そのワンシーンによって、頭のネジがこの映画向きのチューンにチューンアップされる。


行動しないことはなににもならない。
何にもならないから評価されない。

とても面白く見ることができました。
平凡な男性が転落死、棒に変化する。
地面に突き刺さった棒の周りに博士、学生が現れ、その棒を鑑定。
平凡すぎるとの理由で裁きを下す。


高校のときに初めて教科書で読んだときには意味が分からなかった。
今改めて読んでみると、
平凡な男が死ぬ。この世界ではなんの罪もない、普通の男。
しかし鑑定、断罪しようとしている博士たちは違うどこかの世界の人たち。平凡すぎる事を罪とする。

その平凡さに対して、博士たちは放置という罰を下す。裁かない事が裁きとなる人々。
そうすることでまた人に使い続けられるという罪。

つまり、現代にはそういった平凡であることを良しとする価値観が蔓延しているが、あくまでもそれは価値観の一つ。ある世界では良いし、またある世界では罪かもしれない。

もし人が死ぬとき、何かその人の特徴を表したものに変化するとしたら?
人の多様性があるほうが世界は多様なものに満ち溢れるだろう。

もし死んでも変化しないとしても、
多様な人々がいることで存命時にきっと多様なものを作り出すのではないかな?

マス化が進む中でも、個の特徴はとても重要なものだろう。

ps
棒以外のもっと特徴を持つようなものはどんな裁きを受けるんだろう??